2010年05月17日

第3幕『勿忘奏楽』その10


 ――ありがとうございました
 ぼう、と霞みながらもまだ形を保った三姉妹は、一行の前に深々と頭を垂れた。
 ――御箱様が壊れても私たちがまだ形を保っているのは、きっと麗が私たちのことを思うていてくれているからでしょう。けれどその思いの力が及ぶのも今しばらくのこと。もう私どもは消えねばなりませぬ
 ――私たちが過ちをおかす前に御箱様の力を断ってくださったこと、本当にありがたく思います。けれど、心残りは麗のこと
 ――あの娘は私達を本当の姉妹と思っておりましたでしょう。御箱様の力で自らの元に呼び返されたものだと。それが突然いなくなってしまっては、あの娘はどんなにか心を痛めましょう
 ――それに盲いて老いた女ひとり、この先どうやって生きてゆけましょう
 「それについては、案ずることはない、おれたちが引き受けた」
 今にも風に吹き散らされそうになる霞のような姿に、吉野があわてて大声を上げた。引き受けたといって、ではどうしたものかと小滝は一瞬苦い顔をするが、しかし娘たちは安心したように微笑み――面に隠されていない幼い顔は、あどけなく笑い――そうしてどんどんと薄れ始めた。

 「あ、待って。待ってください」
 あわてて芙蓉は人の姿になると、懐の宝玉をひと撫でした。と、その腕にはもう琵琶が抱えられている。その場に座り込んで琵琶を抱えなおすと、芙蓉は琵琶を弾じながら唐渡りの詩を吟じ始めた。

 玉戸(ぎょくこ)簾中(れんちゅう) 巻けども去らず
 擣衣(とうい)の砧上(ちんじょう) 払(はら)えども還(また)来たる
 此の時 相(あい)望めども 相(あい)聞こえず
 願はくは月華を逐(お)いて 流れて君を照らさん
 
 御簾を巻き取っても月光は巻き取れない 
 衣の上を払っても月光は払い落とせない
 今はこうして向き合っているけれども もう消息は知れなくなるから
 月の光と同じようにあなたを照らしていられたらよいのに

 春江花月夜――流れ行く川、散り行く花、去り行く人を止め得ぬさだめを嘆きつつ、それでも流れ行く時を思い、花の名残りを惜しみ、別れ行く人を思うと――いつしか筝が、鼓が、笛が、琵琶の音に和していた。

 斜月(しゃげつ)沈沈(ちんちん)として海霧(かいむ)に蔵(かく)れ
 碣石(けっせき)瀟湘(しょうしょう) 無限の路
 知らず 月に乗じて 幾人(いくにん)か帰る
 落月(らくげつ)情を搖(ゆる)がして 江樹(こうじゅ)に満つ

 最後の一音が響き終わると、その余韻の消えないうちに筝の糸がふつりと切れ、鼓は破れた。からりと落ちた笛は乾ききりひび割れていた。
 が、楽の音はまだ響いている。闇の中に細く差し込む月光のように清らかに。それは琵琶の残響に絡み、混じり、溶け込むようにして消えていった。名残りを惜しむように芙蓉がもう一度琵琶をかき鳴らすと、琵琶は今までとはまるで違った、深く澄んだ音色で鳴り響いた。芙蓉は琵琶にしがみつくようにして泣き出した。

 「泣く暇などなかろうよ、女君たちの心残りを解いてやらねばならぬではないか」
 小滝はそう言うと、鬼龍に言って砂地に穴を二つ掘らせる。
 「その三姉妹も……それに狗神殿も葬ってやるがよかろう。狗神とてもとはただの犬、邪悪な人間に飼われたばかりに化け物に仕立て上げられただけのこと」
 芙蓉はあわてて残ったもう片袖を切って三姉妹の名残りの古びた楽器を包み、吉野は錦の袱紗に箱の残骸と犬の牙を収めると、それぞれに砂地に葬った。

 「ぬしも尽きぬ恨みはあろうがの、抱えていてもなんの益もない。供養は充分にしてやろうから、捨てられぬ恨みを捨てて輪廻に戻り、達者に暮らせよ」
 狗神の葬られた砂地に語りかけるように小滝は言い、そうして静かに経文を唱え始めた。



 「けれどねえ、この話はどうやら続いてしまうのですよ」
 紳士は困ったような顔で言った。
 「え、御箱様は片付き、麗の女君は小滝坊が尼寺にでも紹介してめでたしめでたしではないのですか」
 「いやいや、それがとんでもないことに、この話はどうやらほんの序の口」

 一行が虹川の屋敷に戻ると、夜半の空に轟々と風が吹き荒れていたのだという。風は屋敷の築地を吹き倒さんばかり、そうして西行妖と化した桜は蕾のまま吹き散らされてゆく。屋敷の中からは姉を呼ぶ麗の怯えた声。芙蓉がとっさに屋敷の中に駆け込む。
 「ええ、狐殿はまた何を急いで。あわてて駆け寄ったところで言うべき口上もまだ思いつかないだろうに」
 ぼやきながら小滝は小滝でなにごとか呪言を呟くと、屋敷のどこかで三人の娘たちが奏でていたあの楽の音がかすかに響き始めた。もちろんそれは大天狗の術が紡いだ幻の音なのだが。そうしておいてあたりを見回し、小滝は顔をしかめた。――見知った顔がいる。
 「射命丸ではないか」

 築地の上に立っていたのは、これまた若い女の大天狗。これが椛の紋様の盾を携えた狼頭の天狗を従えて桜に向かい立ち羽団扇を打ち振ると、風がごうごうと巻き起こり、桜を吹き散らすという寸法。
 さあこれだけ散らしてしまえば、もうこの桜が満開になることもございますまいと満足そうにひとりごちるところに小滝坊が声をかける。するとその女天狗、しまった面倒な奴が来たとばかり、あからさまに顔をしかめましてね。「この桜は幽冥界の西行寺の手のものには渡すわけにはまいりませぬ、である以上散らすまで」と叫ぶように言ったといいますよ。

 「それでもあまりに派手なことを。里の者達を驚かせてどうする」
 呆れたように小滝坊が言いますと、射命丸と呼ばれた大天狗は口元を微かに引き歪め
 「ああ、小滝坊さまは何もご存じないのですね。西行寺の住まいなす白玉楼と天狗の間でいさかいがございました。奪ったこの世の春を返せと山の妖怪たちがこぞって白玉楼に押しかけ、いいや返せぬと幽冥界の者たちが突っぱね、かくなる上はと大天狗一党が先陣切って幽冥界に乗り込んだところにございます。天耳法眼がその先陣の大将軍。あの御方の近くに寄るとろくなことが起こりませぬので、私はこちらで仕事をしてございますが」
 「自慢げに言えることでもなかろう」

 そういう小滝の後ろで、すっかり置いて行かれた形になった吉野と鬼龍は呆れたように天狗たちのやりとりを眺めていたそうです。ややあって、小滝の残した音曲の影のおかげでどうやら怯える麗を説き伏せ落ち着けた芙蓉も出てきて。

 そこへね。
 そう言って紳士はにっと笑った。
 欄間の上に鬼火がともり、そこからちっぽけな猫又が。
 「猫又?」
 そう。これは天狐の使いで橙(チェン)という者。これが言うには、戦が大変なことになりました、妖獣が出て大天狗はひとり残らず散々に打ち凝らされてほうほうの態で逃げ帰って来ました、妖怪だけではらちがあきませぬ、人の、人間の腕利きの手を借りねば、と。

 ほら、ね、話はこれからでしょう。
 紳士はもう一度、人の悪い笑みを浮かべた。
 私はこれ以上は話しませんよ、知りませんのでね。この続きは先でお聞きなさい。もうお降りの駅じゃないですか。

 それは確かにそうだったので、私はあわてて荷物をまとめると開いた列車の扉からホームに飛び降りた。背後で戸が音を立てて締まり、去ってゆく列車を眺めながら、私はなにやら狐につままれたような気分でいた。紳士の最後の言葉がまだ耳の中に残っていた。

 ――そう、その妖獣はね、どんなものともつかない姿をしていたそうですよ。頭上に襲い来る黒雲のあちこちから手が出る足が出る尾が出る。それを見たあるものはあれは虎だといい、あるものは蛇だといい、あるものは狸だと言い張ったと。調子はずれの笛のような声で吼え叫ぶ、それはそれはおそろしいケダモノだったといいますよ……

このシーンの裏側。
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2010年05月16日

第3幕『勿忘奏楽』その9

 「では、次は“おんばこさま”とやらか」
 吉野の声に急かされるように一同、足元のおぼつかない中を奥へ奥へと進む。と、
 「ふむ、いかにも怪しげな」
 「陰の気が塊になってあふれ出して来おるわい、なんと忌まわしい」
 でこぼこの岩と砂の上に滑らかな石舞台が築かれていた。
 昔は海神を祭っていたものか、舞台の四隅には柱が立ち、注連縄をかけるようにもなっている。が、注連はとっくの昔に腐って落ちてしまい、名残りのわら屑がいくらか散るばかり。
 舞台の奥には祭壇のごときものが設えられ、その上に何やら載っている。そうして本来ならば聖域なのであろう石舞台からは、もはや耐え難いほどの瘴気、陰の気配がむんむんと立ち込めてくるのである。

 「あれか」
 「だろうな」
 吉野と鬼龍は顔を見合わせ、一瞬置いて吉野がずいと石舞台に足を踏み入れた。

 柱の内側には分厚く塵が積もり、吉野の、続いて鬼龍の足跡だけが点々とついてゆく。あの磯女や牛鬼どもも、どうやらこの“聖域”には足を踏み入れなかったものと見える。

 「こいつ……か」
 吉野は顔をしかめて祭壇の上を見遣った。
 そこにあるのは緑色の錦の袱紗に包まれた、小さな箱状のものである。その傍にはいかにも何かを祀っているというふうに、小さな丸い鏡が恭しく添えられている。
 「待て、なんぞ仕掛け物などないか、調べてみろ」
 そう言う鬼龍の後ろから、
 「それと、その鏡も改めるのじゃな、鏡の中から何ものか、こちらを伺っておらぬとも限らぬ」
 小滝も言う。
 「何も無いぜ、少なくとも、鏡は」
 「じゃあ、伏せておいてよ、やっぱり薄気味悪いから」
 いつの間にか人の姿に戻った芙蓉が衣の片袖を切って伏せた鏡をさらに覆うと
 「では、いよいよこいつか」
 一同が袱紗包みを手にした吉野を取り囲む。
 「袱紗、解いてご覧よ」
 言われるままに吉野が包みを開くと、中には四角い小さな箱状のものが、やはり緑の錦裂に、今度は箱の形なりにぴったりと包まれている。摘み上げた箱はいかにも軽く、耳元で振ってみるとカタカタと中で何かが転がる音がした。
 「さて、それじゃこいつをぶち壊せばいいのかな」
 そう言った瞬間、
 
 ――待て
 地獄の底から響いてくるような声が、吉野の頭の中で鳴り響いた。
 ――ぬし、なんぞ望みはないか。何でもかなえてやろうがな
 答えの代わりに吉野は錦を引き裂き、箱を開けた。
 
 闇が、沸いた。

 ――何も望みがないというなら、ぬしらの望みを儂が貰うとしよう
 くぼめた掌の中でさえもころころと転がるほどの小さな箱の中から、人の背丈の倍ほどはあろうかという、もやもやとした半透明の黒い瘴気が湧き上がった。その中にちらちらと、獣の牙や人の目玉、切り取られた舌、その他多くのおぞましい形が見え隠れするのである。舌の一枚がぬめぬめと動き、そうすると言葉が響いた。
 「あれえ、狗神」
 芙蓉が目を丸くして呟いた。

 狗神とはあめつちの中から生まれた怪異でない。人がこしらえて初めて成るものである。
 飼い犬を土に首だけ出して埋(い)け、その鼻先、しかし決して口の届かぬ場所にうまそうな飯を置く。そうして犬が飢え果て、喰いたいという想いが最高潮に達したときにその首を切り離す。飛んでいって餌に喰らいついた首を取り、七日七夜おぞましい儀式を執り行ってその精髄を箱に収める。そうしてできた箱に定められたように色々なものを与えて大事に扱ううちに、それは強い強い力を持つようになるのだ。
 それこそが狗神であるが、その性は常に陰にして邪悪。人を殺め、人の富貴を損ない、人の栄達を妨げることは大の得意。また願いを掛ければ叶わぬということはないが、どんなによいことを願ったとしても決して思うたようにはならぬ。言葉は思いをそのまま伝えるとは限らぬ。思いとはいささか離れた願いの言葉の、その間隙を捕らえ、いずれは悪しきことにつながるようにと狗神は願いを叶えるのである。そうして殺められ、損なわれ、妨げられ、歪められてついには哀れな末路を辿ったものたちの怨念を取り込んで、狗神はさらにその身を太らせるのである。

 そうしてどれほどの願いを叶え、生じた怨念をその身に纏ってきたか、虹川家に伝わる御箱様はどす黒い瘴気を振り撒きながら脅すように膨れ上がった。

 その瞬間、小滝が気合一閃、柱のすぐ外まで飛び退る。
 「済まぬがこの瘴気の中では術が鈍る。ここから戦わせてもらうぞ」
 ――ほう。儂の威風に恐れを成したか。何なら話を聞いてやらぬでも
 声は途中で途切れた。小滝が掌を突き出すままに闇はぐにゃりと傾いだ。
 「話さぬ」
 「話す事などない」
 「話さねばならぬわけもない」
 「そもそも話せる気がしない」
 そうして唯一の応えは異口同音。それが合図のように刃が閃く。

 吉野、赤鼻丸を抜くと見せかけ、宙に浮いた目玉がそちらに気をとられた隙に、抜く手も見せず懐から赤錆丸を叩き込む。あわてて目玉がぐるりと裏返ったところへ赤猫丸が闇に突っ立ち、ごうと炎を吹き出す。目玉はもう一度裏返り、何やら怯えたように吉野とは反対側に逃げた。こいつは俺の先手先手を思わぬ場所から突いてくる、とてもかなうものではない。が、逃げた先には鬼龍の鉞。逃げられぬのならと闇は逆に膨れ上がった。いくらでも湧き出すケダモノの牙が、周囲を取り囲む二人と一匹の肌を裂き、そこから生気を蝕む。

 「待て芙蓉、俺がこいつの首根っこを抑えるから」
 鬼龍の叫びが獣の唸りを圧して薄闇に響いた。
 「おれより他に貴様の敵はなし、目を逸らすなら覚悟せい」
 鬼龍が喚き叫ぶ。鉞の狙いが定まったのを見計らい、芙蓉はあめつちの理を歌に紡いだ。闇から繰り出される牙を一瞬戸惑わせれば充分、そもそも人の生気は人の中にあるべきもの、闇の力で裂かれた肌理なら、その力が一瞬でも及ばなくなれば傷はふさがってしまうのだ。

 自らを目の前にしながらのんびりと呪を紡ぐ小狐に、狗神は当然のように襲い掛かる。しかし僅かでも身動きすれば後ろから鉞で薙がれ、慌てて体を捻れば恐るべき短刀にざくりとえぐられる。これはいかぬと飛んで逃げようとすれば三方からよってたかって殴り落とされ、そうしてこれはいかなることか、大男の持つ鉞からほとばしる剣気に縫いとめられたように身動きが取れぬ。たまらず狗神はしゃがれ声で呼び立てた

 ――来い、早く来い、お前達を作ってやったのは儂であったろうが。主人の危機に何をしておる

 これはいかぬ、あの三姉妹は命じられれば現われて俺達を討たざるを得まい、とっととこいつを片付けよう。
 とはいうものの、半ば煙のような狗神を撃つのは並大抵のことではない。倒しきれずにいるうちに、石舞台の中にうっすらと三人の娘の姿。そしてその本来の姿であったろう筝と鼓と笛が、半ば透き通った娘の姿の芯を成すように、宙にゆらゆらと浮いている。三つの楽器が鳴り響くと、四方柱の中には心乱さずにはおかぬ楽の音が満ち、そこにいる者たちの手は思うようには動かなくなるのだ。はやく、はやく御箱様を壊してと、半ば朧に透けたままならぬ手で自らの体内の筝を掻き鳴らしながら、悲痛な声で月沙の女君が叫ぶ。

 「わしは無事じゃがな。姫君方心安んじておられよ、すぐにあの化け物は片付けて進ぜる」
 しかし、そう、四方柱の外に退いていた小滝は無事。そうして片手に宝珠、片手に独鈷を掲げて声高に真言を叫べば、音にゆがめられた空間がさらに歪み、その中から無数のつぶてが湧き出して激しく狗神を打つのである。芙蓉も狗神を愚弄するようにその目の前で呪を紡ぐ。狗神はその隙に乗じようとするが
 「おれより他に貴様の敵はなしと言うたろうが」
 その度に鬼龍の鉞が唸るのである。

 しかし、
 「ごめん兄さん、あたしもう囮になれない」
 「おお、よく耐えてくれた狐殿、もう案ずるな、さあ、化け物めこっちに打って来い」
 鬼龍がすいと鉞を引けば、狗神、今度はそちらの隙に乗じようとして芙蓉のほうががら空きになる。その隙に退いて自らの傷口を塞ぐと、また牙を剥いて狗神に駆け寄る芙蓉。吉野の短刀が狗神の目玉をえぐり、天狗つぶてがもう一度湧き出して闇を押しひしぐと、さしもの御箱様もついに砕け散った。
 闇は散り、後に残るは壊れた箱と犬の牙がひとつ。


このシーンの裏側。
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2010年05月15日

第3幕『勿忘奏楽』その8

 どうぞ必ずや、とひっそりと頭を下げる三姉妹に見送られ、とっぷりと暮れかけた中、一行は屋敷を出た。教えられたとおりに浜に降り、磯づたいにしばらく行くと、崖が海へと迫り出し、その足下が深い洞窟になっている。打ち寄せる波は崖の根を深く削り、砂の溜まった岩場のところどころには潮が溜まっていた。芙蓉がそっと前足を差し入れてみると、足が立つ場所もあれば淵のように深くなっているところもある。いざとなったら鬼龍の肩の上によじ登らなけりゃ、と、芙蓉は冗談でもなさそうに言った。

 「“おんばこさま”とやらはこの奥か」
 鬼龍が問うともなく言うと、
 「間違いなかろうな。この崖の胎内に一歩足を踏み入れれば、もう気が澱んでおる。生臭い陰の気で息も詰まりそうじゃ」
 小滝が苦々しげな声で応えた。 
 吉野は腰の双剣の柄に手をかけ、鋼の重みを確かめた。手に馴染んだ赤鼻丸と赤猫丸。そうして懐には鈴鹿の鬼の山塞から頂戴してきた短刀、赤錆丸、人の血を啜っては刀身に纏うと称する業物を呑んでいる。

 「おい、あれは」
 ふと振り返り、洞窟からちらりと海の方に視線を走らせて吉野は声を揚げた。
 星明かりの中に浮かぶ人影。
 衣の裾をはためかせ、波の上に老婆が一人。針を植えたようにぎらぎらと光るざんばらの白髪、よどんだ淵の色の肌の中に赤い瞳。皺んだ口元はどうせいざとなれば耳まで裂けるのだろうよと思いながら吉野は、足先で芙蓉を小突いた。ありゃなんだ、物知りの狐殿。
 「ああ、磯女」
 少し目を細めてから、芙蓉は言った。
 「やかましい鬼婆だよ。磯住まいの」

 「おお、飯じゃ、飯じゃ、温かい飯がおいでなすったよ」
 そうして洞窟の中に身構える一行を認めたか、磯女はきしむような声で耳に刺さる叫びを上げたものである。
 「おまえたち何をしているんだい、今日は外に行かなくてもおまんまがいただけるよ、ぐずぐずするんじゃないよ」
 するとそれに応えて暗い岩壁から染み出すように現れたのは、後ろ足で立ち上がった牛二頭。いや、牛でない、鬼だ。鬼の体に牛の頭、大斧を担いだ化け物が二匹、老婆の叫びに応え、浅い水たまりを挟んで一行の直ぐ傍に姿を現した。

 「さあ、とっとと料理しておしまい」
 言うやいなや、老婆は飛ぶように水の上を走り始めた。そうしてがばりと大口を開けると、喉も破れよとばかりに叫び声をあげたのである。牛鬼が現れたのに応じて体を開き、いくらか距離を取っていた小滝だけが無事、あとはまともに金切り声に耳を打たれてよろめく。
 「ほうら、やつらを柔らかくしてやったよ。いまだよとっとと片づけるんだ」
 「くそやかましい婆あだ」
 うめくように鬼龍は言うと、小滝と芙蓉を見遣った。
 「俺はこの牛鬼どもをやる。婆あは任せた、手の届かぬ場所からぎゃあぎゃあと言う奴は好かぬ」

 婆あと鬼だけじゃないぜ、と、吉野。俺たち二人でもう一匹相手できるか。
 打ちかかってきた牛鬼をあしらいながら鬼龍がちらりと見ると、吉野の足下の水中にゆらりと動く影。
 何か、いる。

 水の中にぎょろりと光る丸い目と、まともに目が合った。
 そう思った瞬間、鬼龍と吉野の足元の水がざばりと持ち上がった。現れたのは身の幅一間、いや、さらにあろうかと言う大蜘蛛。しかし蜘蛛の頭のあるべき部分には、もう呆れるほど巨大な牛の頭がついている。そうして牛ならばのんびりと草を食むはずの口元にはガチガチとかみ合わされる尖ったのこぎりのような牙がずらりと並ぶ。
 「なんだ太郎丸、もう出てきたのかえ。いいからやっておしまいよ」
 老婆が声を揚げると牛頭の大蜘蛛はがさがさと8本の足を立て、吉野のほうに顔を向けた。そうしておもむろに口を開け、蜘蛛の糸ならぬ白い霧を吐き出した。

 刺すような痛みに思わずたたらを踏み、あたりがぼんやりとおぞましい色に霞むのに、毒霧を吹きかけられたのだとようやっと吉野は気付いた。
 「そいつは今のところ任せた、持ち堪えろ」
 「冗談じゃねえ、とっととその牛鬼ども片付けて加勢してくれ」
 鬼龍の声のした方角に怒鳴りながら、双剣を力任せに蜘蛛の節々に叩き込む。小滝の術も加勢をしてくれているらしい。どうやら押し返せる。そう思った、が。

 再び老婆の金切り声が海面を波立たせた。今度のはさっきの声など比べ物にならぬ。耳の痛みどころか目まで眩む。そうして老婆は山伏姿の小滝が、実は手弱女なのを見て取ったらしい。ずんずんとそちらに向かっていく。
 「おいこら狐、あの婆あをなんとかしろ、小滝に近寄らせるな」
 打ちかかってくる牛鬼どもの大斧を何とか凌ぎながら鬼龍は喚いた。牛鬼の一匹はもう魂切れかけているが、それでもしつこく回り込んできては鬼龍の行く手を遮る。波の中で進むも退くもならず、ぶんぶんと大鉞を振り回しながら鬼龍は焦れていた。
 「なんぞ便利な妖術で片付けちまえ」
 「無茶を仰いますこと、そりゃあ兄さんよりゃあ随分と器用だけど、あたしだってそうそう何でもできやしない」
 芙蓉はぶつぶつと口の中だけで言いながら、とはいえ手をこまねいているわけにもいかぬ。
 焼け死んでくれりゃあ近づいても来られぬはず、とばかりに狐火を紡いで飛ばす。その隙に小滝も踏みとどまり、海中に雷の壁を立てるが、これはもとより大声で喚き散らすのが得意の老婆にはさしたる妨げにもならぬ。青白い炎に焼かれながらも老婆がさらに陸に近づいたとき、
 「ハッ、なりは大きかったが結局は婆あの下っ端、口ほどにもない」
 鬼龍が牛鬼一匹の首をすっぱりと斬り飛ばした。足下に転がった牛の首に、もう一匹の牛鬼は思わず浮き足立つ。

 「ええ、なにをびくついているんだね、太郎丸がいる限りあたしたちが負けるはずもなかろうが」
 もう白髪を狐火でぼうぼうと燃え上がらせながら、磯女は金切り声で喚きたてた。ほら、太郎丸、やっておしまい。
 吉野の足元の砂がいきなりえぐれた。危うく大蜘蛛の腹の下に滑り込みそうになりながら、吉野は身を捩った。半ば砂に埋もれた吉野の頭上を、鋼のような蜘蛛の爪が次々に薙いでゆく。
 「今度こそいけねえ、そろそろ加勢してくれ」
 「すまぬ、婆あにてこずっておった」
 小滝が手をかざすと、いずこからともなく現れたつぶてがばらばらと大蜘蛛を撃った。そうして芙蓉も、
 「そいつに術をかけたよ、今、そいつは兄さんの事が見えてないから、好きなように切り刻んでいいよ」
 だからそういう、わけのわからないのをあの婆あにも使えと言ったんだ、と、残った牛鬼を相手取りながら鬼龍が言う。

 そうこうするうちに、磯女は狐火で心の臓までを焼ききられ、「おんばこさまぁ」と一声叫んで事切れた。さすがに逃げ失せようとした牛鬼は、鬼龍が二歩ばかり追って真っ二つに切り捨てた。残った大蜘蛛には狐火の欠片が燃え移り、胸元を裂かれた上に背中を焼かれて大蜘蛛はそのまま動かなくなった。吉野がさらに大蜘蛛の腹までを割くと、中からは無数のしゃれこうべが転がりだしてきた。

 「磯で旅人を襲っていたというのは、きっとこやつらだったのだろうのう」
 ぽつりと小滝が言った。

このシーンの裏側。
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2010年05月14日

第3幕『勿忘奏楽』その7

 姉上さま、それは、と、明玲の女君、瑠璃光の女君が立ち上がりかけるのを押さえ、月沙の女君は一行四人の前に居住まいを正した。
 「恐れることはありません、まだ日も暮れかけたばかり、御箱様(おんばこさま)もまだ目覚めてはいないでしょう。
 ――何もかもお話しいたします」

 私どもが麗の姉であり、病に倒れたと言ったのはすべて偽り、そらごとです。虹川の大殿が病で死に、麗が同じ病で目の光を失ったのは本当の話。けれど麗の三人の姉は既に嫁いでおり、この屋敷にはおりませんでした。誰もいない屋敷に、麗は一人取り残されたのです。
 ところで、この屋敷には――それとも虹川家に持ち伝えられてきたものだったやもしれませぬが、御箱様と呼ばれるものがありました。それは力あるもので、祈り頼めば願いを叶えてくれたのです。
 麗はその御箱様に祈りました。幼い頃に都で何不自由なく、三人の姉と共に暮らしていた幸せな時を我が身に戻してくれと。そうして――

 「祈りが通じて、そなたたちが現れたというのじゃな」
 「その通りにございます」
 「では、ぬしらはもともと霊の類ではないというのか」
 「はい、違います。私どもは御箱様に作られた身。それゆえ御箱様の望むことを果たさずには居られぬ身なのです」
 鬼龍の問いにうつむきがちに答えると、月沙の女君は覚悟を決めたように顔をあげた。
 「あの、桜。あれがただならぬものであることは私たちもよく存じております。あの花を咲かせることこそが御箱様の望まれたことでした。私どもが夜の闇に紛れて楽を奏でると、あの桜は応じて花開くのです。
 この身が陽のものではないように、そのとき奏でる楽の音も応じて開く花も、けっして陽のものではございませぬ。けれど私どもはこうして屋敷の中、ここにいる限り悪しきことはあるまい、御箱様が望むのならそうすればよい、私どもは麗が命果てるまで守ってゆけばよい、と、そう思うようにしていたのでございます。
 けれど」

 そこで月沙の女君は言葉を切り、少しうつむいた。言うべき言葉を捜しているふうでもあった。
 「麗が危ない、と、あなたがたは仰いました」
 ふた息ばかりおいて、また面の唇あたりから声が流れ出した。
 「それは確かに私どもも案じておりました。あの桜はどこまで咲くのだろう、御箱様の望みは何なのだろう、と。そしてあの桜が咲ききったとき、私どもは麗をあの桜の元に連れてゆかねばならなくなるのではないか、と。
 案じてもせんないこと、とも思いました。御箱様の思い通りにしなければ私どももこうしてはいられない、私どもがいなくなってしまえば麗も生きてはいられない、だから望まれることを望まれるままにせねばならないのだ、と」
 「でも、それは」
 芙蓉が割って入ろうとするのを、月沙の女君は袖を振って押し留めた。

 「けれど、こうなったからには心を決めました――明玲、瑠璃光、よいですね。
 御箱様の力を断って下さいませ」
 「だが、そしたらあんたがたは」
 これは吉野。
 「わかっております。ですからお願いはふたつございます。先ほどのがひとつめ。もうひとつは麗の身の上をお願いいたしたく存じます」
 「さもあらん、」
 答えかけて鬼龍が小滝のほうを見る。大天狗殿、なんとかしてやってくれ。
 吉野も芙蓉もそろって小滝を見る。この四人、いや三人と一匹の中では、頼りになる伝手(つて)を持っているのはすなわち大天狗であろう。小滝は一瞬考え込むふうをしたが、なんとかしようと呟くように言った。

 「よし、ふたつめは大天狗殿がひきうけたとのこと、で、ひとつめは……」
 鬼龍が言いかけたところで、隣の部屋から
 「お姉さま、そろそろお腹が空きました」
 ふざけて甘えてみせる麗の女君の声。

 ああ、そうでした、お客様もいらっしゃいますもの、急ぎましょうねと明るい声で言って、明玲の女君が立ち上がる。小さな姿が衣をまとわりつかせながら台所へ降りると、見えない手が鍋を持ち上げ、火を焚きつけ、食事の支度を始める。もちろん騒霊の力ですることなのだが、ひとりでに鍋釜包丁が宙を舞っているようにしか見えぬ。何とも落ち着かない。ついに芙蓉が腰を上げ、何かお手伝いしましょうかと声をかけると、小面がひょいとこちらを向いて「大丈夫です、お客様は座っていらしてくださいな」と、これは何やらくすりと笑ったふう。芙蓉、立ちかけた膝を慌てて戻した。

 瑠璃光の女君は隣室の麗の女君のもとへ行き、月沙の女君だけが残った。
 「では、ひとつめの話を詳しく聞かせて貰おうか」
 鬼龍が言う。
 月沙の女君は声を潜め、早口に語りだした。

 「申します。よくお聞きくださいませ。今しか申し上げられないことですから。日が落ちて間もない今なら御箱様も目覚めたばかり、私の声を聞き取ることもそうはできますまい。
 私たちと共に暮らすようになった後、麗は自室に祀っていた御箱様をこの家から出しました。というより御箱様に命じられて私どもがそのようにしたのです。
 この屋敷から海岸に下りて少し行くと、海際に山が迫り出し、海が山を穿って洞を成しているところがございます。その最初の洞の奥に御箱様がございます。それがそこにあるのを知りながら、私どもではどうにもなりませぬ。どうか御箱様の力を断ってくださいませ」
 「承知」
 「わかった、安心しろ」
 「ところで、その、御箱様とはなんなのじゃな」
 鬼龍と吉野が勢い込んで答えたあと、ふと小滝が問うた。
 「わかりませぬ。とても強く、恐ろしいものです。ただ、箱の形をしております」

 そこまで言うと、月沙の女君は一同の顔を見回し、もう一度居住まいを正して深々と頭(こうべ)を垂れた。
 「どうかお願いいたします」
 「必ずや、な。もう案じずともよい」
 「お妹御のことも、必ず」
 「ああ、ほんとうにお願いいたします。どうか麗を不幸せにしないでくださいませ。私どもは御箱様に作られた身ですが、本当にあの子を大事に思っているのです」

 いつのまにか、明玲、瑠璃光の二人の女君も戻ってきていた。月沙の女君は正面から、瑠璃光の女君は隣室の襖の陰から、そうして包丁を手にした明玲の女君が台所から、三組の黒い穴の目が凝(じ)っと四人を見つめていた。
 「あなた様方が良い方々で嬉しゅうございます。こうして話をしながらも、もし頼るべきひとでないと思うたなら、私たちはあなた方を殺してしまうつもりでしたから」


このシーンの裏側。
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2010年05月13日

第3幕『勿忘奏楽』その6

 「こうして座っていても、埒はあきませぬ」
 先に言葉を発したのは三姉妹の側。明玲の女君である。
 「もう日も暮れます、夕餉の支度をいたしましょう。皆様方も長旅、さぞお疲れでしょう。何かあたたかいものでもお腹に入れて、それからお話はいたしましょう」
 すると瑠璃光の女君が返事のように立ち上がり、無言のまま隣室へと続く襖を開けた。
 「どうぞ、あちらへ。私たちも参りましょう」
 月沙の女君はそう言って麗の女君を振り返り、何事かその耳にささやくと、おもむろに“客人”たちを促した。

 隣は座敷というよりも控え間で、そのまま台所に降りられるようになっている。食事の支度をしながら、麗の女君の心を騒がさずに話そうというのだろう。
 一応は人の姿をした四人と、まるでからくり人形のような三つの姿は互いに向き合い、またしばらく黙りこくった。戸を立てた薄闇に目が慣れるに従って、衣と面に覆われた下に、ほっそりとした童女の姿が半ば透き通ってあるのを、まず吉野が見て取った。そのことを告げられた残りの三人の目にも、そう思ってみればたおやかな娘たちの姿が朧に映るのである。

 「さて、では話してもらおうか。ぬしらは何者だ」
 今度は鬼龍が先に口を利いた。答えはしばらくの沈黙。が、
 「お察しの通りです。私たちはこの世のものではありませぬ」
 ややあって月沙の女君が応え(いらえ)を始めた。
 
 虹川の大殿はわけあって都を落ちてきた。その事情は今では知れぬし、今に続く因縁もない以上、こたびの事柄にも関わりはない。大殿に付き従って落ちてきたのは、身の回りの世話をするわずかな者と四人の娘たちばかり。落ちてきた都人たちは海際の寒村に、身を寄せ合うようにして暮らすことになった。しかし娘たちにとっては、姉妹が揃って暮らせさえすればそれは寂しいとばかりも思えぬ、ほのぼのとした日々なのだった。
 しかしある年の冬、悪い流行病(はやりやまい)がこのあたり一帯で猛威を振るった。
 当主の大殿を始め、屋敷の者はみな病に倒れ、そのまま死んでしまった。月沙、明玲、瑠璃光の三人も同じこと。麗だけが命長らえたが、病の床から身を起こした時、その目は光を失っていた。

 「最期の息を吐きながら、私たちは案じていました。父さま(ととさま)も側仕えのものたちもみな死んでしまった、私たちまで死んだら妹は、麗はどうなるだろう、と」
 案じるあまりの心残りが凝(こご)ったか。
 「気づいたときには、三人ともがこのような浅ましい姿と成り果てておりました」 

 おお、それでようやく知れた、この者たちは幽霊ではないのだよ、と、小滝は傍の三人に言って聞かせた。死んだ後の恨みが残ったというよりは、この世にあり続けるために、ありようを変えたのだな。これは騒霊(そうれい)という。なんとか形を保って目の見えぬ妹を助けようと、この者たちは騒霊となったのだ。 話には聞いていたが実際にこう、膝詰めで向かい合こうことになろうとはわしも思わなんだ。
 「では、あの桜は」
 そう、吉野は小滝に問うた。
 「そうはいってもこの娘御たち、命あるものではないんだろう。とすればこの娘御たちがこの世に留まるが故に、幽冥の気が溜まってあの桜をあのように変えたのでは」
 「それは知れぬが」
 小滝は首を傾げる。
 「毎年、あの桜は周りに先駆けて咲くのですか。それともこれは今年初めてのことでしょうか」
 芙蓉が問うたが、月沙の女君は首を振り
 「このような姿になってから、私たちには時の流れもしかとは知れなくなりました。いつが去年(こぞ)やら今年やら、夢のように時は過ぎゆくばかり。屋敷の桜が早く咲いたといっても、言われて初めてそうと知るような」
 「ともあれ、あの桜は妖なのだ」
 謡うような月沙の女君の言葉を斬って捨てるように、低く鬼龍は叫んだ。
 「数日前、鈴鹿山中にてあの妖の同類を見た。鳥は落ち草は枯れ根方には白々と骨が転がって、花ばかりが艶やかに咲いておった」
 放っておけばあの桜もそうなるのではないか。そうすればぬしらの守りおる妹御も。少し調子を和らげ、そう続ける。
 「けれど、私たちがいなければあの子はとっくに身まかっておりましょう」
 突然、悲鳴のように瑠璃光の女君が声を挙げた。
 「私たちがいるから桜が死を呼ぶようになったとしても、かといって私たちがいなければ」
 「それはそうでしょうけれども、けれど」
 芙蓉は口ごもった。こちらが道理なら三姉妹の言うも道理である。この世に春の訪れる為と説いたところで、半ば異界のごとき屋敷にひっそりと姉妹だけで隠れ住む者たちには何の力があろう。この世の春は虹川の娘たちの知らぬこと、命失せてまでこの世に残るほど執心した妹の身の上こそが心にかかるは痛いほどわかる。

 「辛いことだの。が、さて」
 「けど、なんとかしてやれないのか」
 たまらず吉野が声を挙げたとき、月沙の女君がふと顔を上げた。
 面にうがたれた穴から、目がひかったように見えた。

 「そこまで心を砕いて下さるのですか。
 ならば、すべてをお話しいたします」

このシーンの裏側。
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2010年05月12日

第3幕『勿忘奏楽』その5

 楽の音が響く。妖に負けぬ、艶やかで華やかな――いや、賑やかな音曲(おんぎょく)。三姉妹も各々の楽器を手にする。絡まりあう楽の音。が、融け合いはせぬ。三姉妹の音色は互いに絡まり合い融け合い、そうして芙蓉の奏でる歌から旋律を奪おうとしている。それに気づき、屋根の上で小滝は身構えた。いざとなったら割って入ろうかと思うたが、楽の音のやりとりから既に戦いというわけか。まさかとはじめは耳を疑ったが、確かに音色のやりとりの中で、三姉妹は芙蓉から曲の流れを奪おうとしていた。楽師同士の意地の張り合いとも思えぬ、この姉妹、かならずや西行妖といかほどかの関わりを持つに違いない。芙蓉が見守る鬼龍と吉野に目配せをする。手拍子を。よォし天狗仕込みの威勢のいいところをひとつぶちかますぜと吉野が勢い込んで手を打ち鳴らし、鬼龍も合わせる。が、三姉妹の楽の音は揺らぐ様子もない。ふた節も奏でぬうちに琵琶と手拍子は奏楽からこぼれ落ち――
 
 これはとうてい敵しうるものではない。
 そう見て取ると芙蓉は鬼龍と吉野に手を振って手拍子を止めさせ、あとは三姉妹の音色に唱和するように琵琶を奏でるのであった。そうすると楽の音はいかにもほのぼのと穏やかに響いた。この音色に禍々しきもののあろうはずがないと芙蓉は奏でながら思った。もし曲に悪しき思惑がまつわっていようものなら、その楽の音に和そうとする時に必ずや何らかの忌むべき気配を感じるはず。が、この曲にはそのような陰はない。

 そう悟ると、芙蓉は琵琶を奏する手を止めた。
 「失礼をいたしました」
 楽器を膝から滑り落すように横たえ、三姉妹と麗の女君に向かって深々と頭を垂れた。
 「仔細あってのこととはいえ、お耳汚しのひと騒動、どうぞお許しくださいませ」
 「私は都の音曲を楽しみにしておりましたのに」
 麗の女君は苦笑いを浮かべて言った。
 「あれではまるで、下々の宴席で酔い騒ぐときのよう。けれど」
 そこまで言って、麗の女君はこんどは嬉しげにほほえんだ。
 「後からはお姉さまたちに合わせて下さいましたのね」
 「はい、そうさせていただきました。これも仔細あってのこと」
 けれどこの身に知れたのは、お三方が比類なき奏楽の名手であるということばかり。

 ひれ伏していた芙蓉は、そこできっと顔だけを挙げた。
 「失礼重々お詫び申し上げます。けれどこれは故(ゆえ)なきことではございませぬ。お庭に咲き誇る桜、美しゅう咲いておられますが、あれは妖と化しております。あの桜は人の死を誘うものと成り果てる、その道半ばにございます。それも十分に生きて後の死でなく、ただこの場での命半ばでの死をあの桜は人々に誘いかけるのです。わたくしたちはそのような桜を余所でも見かけました。すなわち西行妖、と称される化け物に、わたくしたちが見た桜はなりかわっていたのです。お屋敷の桜もきっと、」
 三つの小面がいっせいに芙蓉に向いた。面に人の表情はない。けれど麗の女君はおろおろと身の置きどころもないような顔をしている。

 これはいかぬ。
 小滝は屋根の上で立ち上がった。
 狐が何かへまをしでかしたのやもしれぬ。座敷の奥で赤い衣をまとった小さな姿が立ち上がり、開け放たれていた座敷の戸を立てたのだ。これでは中で何が起こるか知れたものではない。

 薄暗くなった部屋の中は、無言で鬼龍が立ち上がった。その手には大鉞。それをぐいと屋敷の女どもに突きつけ、
 「うぬら、何ものだ」

 戸を立てたのは瑠璃光の女君。月沙の女君は麗の女君を庇うように立つ。明玲の女君が片袖を振ると、部屋の隅に置かれた燭台に鬼火が点った。
 「あ、あの、何が、何がどうしたというのでございましょう」
 麗の女君がおろおろと立ち上がりかけるのを月沙の女君は押し留める。たくし上げた袖から半ば透き通った小さな手が伸び、麗の女君の肩を抱き止めるのを吉野は確かに目にした。
 「うぬら、何ものだ。妖どもが何故あってここに住まいするのだ。答えろ、さもなくば斬る」
 鬼龍が喚き叫んだとき、激しい音を立てて雨戸が座敷に倒れこんだ。途端、夕暮れ前の光が座敷にさっと流れ込んだ。
 「待てい、この場は大天狗、石動の小滝坊が預かった。どちらも手を控えい!」
 一瞬遅れて涼やかな凛々しい名乗り。戸板一枚分だけ照らし出された座敷を見回すと、小滝はおもむろに履物を脱ぎ、蹴込んだ戸板の上から座敷に足を降ろした。
 「どちらも手を控えい。ああ、そこのお三方、仔細はいかようにも聞こうぞ。そう睨んでも甲斐はあるまいよ。鬼龍、そなたもだ。その物騒な長物はさっさと置いたがいい」

 鬼龍が大鉞を収めたのを見届けると、小滝は三姉妹――麗の女君は月沙の女君に抱えられたまま、まだ呆然としている――を前に端座(たんざ)した。
 「もう知れたとは思うが、我らは訳あってこの屋敷を訪の(おとの)うた。わしは能登国石動山に住まいする大天狗小滝と申す。先に通されし三人と同道するものである。この三人が屋敷に入った後、にわかに戸が立てられたによって何事かあらんと思い、無礼とは知りながら急ぎ参った次第。それゆえ玄関から案内(あない)を頼みはせなんだ。常ならぬ場所からの入来(にゅうらい)、どうか許されよ」
 そう、小滝が一息に口上を述べると、三姉妹は出鼻をくじかれた形で黙り込んだ。そうして目の前の四人をじっと眺めている――といってもまなざしを投げて寄越すのは瞳のない小面なのだから、おちつかないことこの上ない。

このシーンの裏側。
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2010年05月10日

第3幕『勿忘奏楽』その4

 戸の陰から覗いたのは、面であった。
 ひっそりと目を伏せた、美しい小面(こおもて)の面である。面だけ見たなら感嘆の声を挙げたろうが、ひとけのありともなしとも知れぬ屋敷の扉からそれが覗くのは、決して気持ちのよいものではない。
 面の周囲に黒い衣が垂れ下がっている。戸はたしかに手をかけて引きあけたものと見えたが、そこから見えるのはだらりと垂れ下がる袖ばかり。それはまるで、幼子が頭から母御前(ははごぜ)の小袿(こうちぎ)を被り、ちょこんと覗いた顔には面をかけたとでもいうような。

 「怪しい奴。さては化け物か」
 背後で鬼龍が大鉞を握りなおす気配を感じ、芙蓉はとっさに玄関に駆け寄った。
 「あの、ご親切に。ありがとうございます」
 「ああ、お泊めしてさしあげるのですね、月沙(つきしろ)のお姉さま」
 戸口を人がくぐる気配をききつけたか、老女が言う。ならば、まちがいない、この小面をかけた黒衣の小さな姿が老女の“姉”なのだ。
 「おい、こいつらは、」
 「化生(けしょう)のものだからといっていちいち叩き斬らなきゃならないんだったら、あたしもとっくに斬られてるよ。ここはあたしにまかせて」
 今にも鉞を振り降ろしそうな鬼龍の耳に小さくささやくと、芙蓉は長い暗い廊下を先に立つ小さな姿の後ろに歩み寄り、そうして息を呑んだ。鬼龍も、そして吉野さえも気づいてはいないようだが、先をゆく黒い衣の中にはなにもない。うつろがふうわりと膨らんでいるのだ。
 「もしや、わたくしどもを恐ろしいと思し召されてそのような姿でいらっしゃるのでしょうか」
 低く、芙蓉はささやいた。どのような化生か知らぬが、ひょっとしたら他所者(よそもの)を警戒して形代(かたしろ)を寄越しているのかもしれぬと思ったのだ。
 「いいえ」
 月沙と呼ばれていた姿は、振りかえって芙蓉をまともに見上げ、笑った。動かぬはずの面が、たしかにひやりとした笑みを浮かべたかに見えたのだ。
 「どうぞ、こちらでございます」
 振り返ったのは一瞬のみ。何事もなかったかのように月沙は襖をからりと引いた。
 戸を開け放った縁側に面したその部屋には、最前の老女。そして小面をつけ衣をすっぽりと被った小さな姿がもうふたつ。

 「ようこそ。このような暮らし故、おもてなしらしきことのひとつもできませぬが、どうぞおくつろぎくださいませ」
 老女はそういって会釈し、ね、お姉さま、と小さな姿のほうに首を傾げてみせた。
 「こ、この方々が……姉上様がた」
 芙蓉は呆然とつぶやいた。座敷に座る面をかけた小さな姿はそれぞれ白い衣と赤い衣を被り、またその前には鼓と笛が置かれている。ひとつ空いた座の前に箏が横たえられているのは、これは月沙が弾じていたものか。
 膝をつき、軽く会釈を返しながら芙蓉は忙しく部屋の様子を見て取った。そして鍵の手に曲がった屋敷の、ちょうどこの部屋のはす向かいに当たる屋根の上に小滝がひらりと飛び上がって身を伏せたのも。
 「はい。私と三人の姉で暮らしているのです。私は麗(うらら)と申します」
 「麗、麗の女君、でいらっしゃいますか」
 「はい、そうして先ほど皆様方をお迎えしたのは一番上の月沙(つきしろ)の姉」
 「私は次女の明玲(めいれい)。どうぞおくつろぎなさいませ。そして都の話でも聞かせてくださいな」
 白い衣の中の小面からも声がして、そうしてこの面はひどく物珍しげに一行を眺めるのである。
 「わたしは瑠璃光(るりこう)」
 三番目の姉君は、順番が回ってきたので仕方なく、というふうに名乗り、あとは黙りこくってただうつむいている。が、その伏せた面から視線がずっと注がれているのを、芙蓉の隣に控えた吉野はなにやら居心地悪く感じていた。

 「あれに咲いているのが、あの、築地の陰から見えた桜か」
 芙蓉が名乗り、そして供の者として吉野と鬼龍を紹介してしまうとなにやら話の継ぎ穂が途切れ、沈黙が落ちた。そこへ鬼龍の大声である。
 「おお、そうでございました。観桜(かんおう)をご所望なのでしたね、どうぞこちらへ」
 そう言って老女――麗の女君は手招いた。
 「おお、いかにも見事な」
 「そうでございますか。私には見えませぬが、気配のようなものはいたします。お心の慰めになったのならば嬉しうございます」
 感嘆の声をあげてみせる鬼龍に、そう言って麗の女君はおっとりと笑ったのだった。

 さて、この桜はいかなるものであろう。
 そう思いつつ吉野は芙蓉に付き従うかのように膝行(しっこう)し、縁側に出た。薄曇りの空に七分咲きほどの桜、そしてそれは。

 「西行妖」
 吉野は短く低く芙蓉の耳にささやいた。
 鈴鹿の山では危うく命を落としかけた。一度あの気配を身体で感じたならば、山の気配を読むに長けた身、二度は過たぬ。虹川大殿(にじかわのおとど)の屋敷にいち早く咲いた桜は、鈴鹿の山中にて死を呼ばわり死を振りまいていたあの妖桜の気配を確かに帯びていた。
 桜の根方を眺めるが、妖と化してまだ日が浅いか力が足らぬか、鳥の死骸などがある様子はない。が、よくよく見れば羽虫あたりがびっしりと降りつもっているのであろうよと口の中でひとりごちると、吉野は鬼龍を見遣り、口を”あ・や・か・し”と形作った。では斬らねばならぬかと鬼龍が大鉞を引き寄せるのを、今度は芙蓉が目で制した。

 屋根の上、ほう、と小滝はつぶやいて耳を澄ませた。
 狐殿はみずからの芸で桜の妖気を破る心算(つもり)か。
 「いかにもお見事な咲きぶり。花も見ず都を後にせねばなかった恨めしい心持もすっかり晴れました。どうぞ何か御礼をさせていただきたく」
 そう言って芙蓉は屋敷の女たちに向かって一礼したのだ。
 「舞を御所望なされますか。楽をご所望なされますか」
 「ならば、都の楽の音を聴かせてはいただけますまいか」
 と、麗の女君。
 「私は目が見えませぬ。ならば、どうぞ楽を」
 「私たちもともに奏でさせていただきます」
 月沙の女君が言葉を継いだ。
 「おお、それはさぞかし面白うございましょう」
 芙蓉も答えて言うと、衣の袂を探り、琵琶を取り出した。
 一斉に三つの面が芙蓉のほうを向いた。当たり前である。先ほどまで、袂に何かが収まっていたふうな様子はなかったのだ。そもそも琵琶が衣の袖に収まろうはずもない。が、芙蓉は意に介さぬふうで奏で始める。同じ化生のもの同士、そちらが妖しの姿を見せるならこちらも妖しの手妻(てづま)を使うから、いちいちと驚くふりをせずともよいというわけかと、小滝は屋根の上で笑った。

このシーンの裏側。
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第3幕『勿忘奏楽』その3

 小滝が女たちと話している間に。
 「わかったからその手を離しておくれよ、化けるから」
 鬼龍の手の下からどうやらすり抜けると芙蓉は宙返りをひとつ、若い娘の姿になった。市女笠のぐるりから唐虫(からむし:絹の薄布)を垂らし、いかにもよい育ちの娘がよんどころない事情あって旅をしているというふう。だが
 「あれ。これでは兄さんたちと一緒に居てはおかしいかしら」
 ふと顔を上げ、鬼龍と吉野の――山野に随分と鍛えられた――姿を等分に見てもう一度宙返りをしようとするのを鬼龍がぐいと押し留め、
 「そのままで居れ」

 とこうするうちに、小滝が戻ってくる。かくかくしかじかと事の次第が繰り延べられると、吉野はひとつ頷き、
 「よし、では早速その桜を検分にいかねばならん」
 なあ、と後ろを振り向きかけ、はっと言葉を留める。そうだ、妖夢は幽冥界のあるじ様に顕界の春を奪うわけを問いただしに行っていて、もうここにはいないのだ。
 「どうした」
 「いやなに、頼りになる剣士がもう一人居ったら一段と心強かろうと、そう思っただけだ」
 鬼龍の問いに早口で答えると、吉野はもう一度、では桜を検分に行くぞと言った。もちろん一行に否やはない。

 虹川の大殿の屋敷は、女たちの言ったとおり、街道の少し先、まだ里には入りきらぬ場所にある。ひとけなくうら寂れ、海際にうずくまるようにあるその屋敷のぐるりを囲む、くすんで崩れかけた白壁の後ろから確かに、
 「おお、咲いておる」
 「六、七分といったところかの」
 微かに紅を含んでほの白い花びらが、曇った空にふうわりとほころんでいる。
 が。

 「おい、この屋敷、人の気配がする」
 六、七分咲きというならば、さっそく満開に咲かせてやらねばなるまいと曙桜の初枝を構えて築地の崩れに歩み寄った吉野が、急に鋭く言って後ずさった。
 「何。だが、」
 「よく見ろ、化け物屋敷と聞いていたが、根太ひとつ抜けた様子はない。屋根も草一本生えておらん。戸も立てられてはおらんし、だからといってその奥に晒され崩れた畳や柱が見えるでもない。たしかに古びて貧乏くさいが、丁寧に手入れはされたふうだ」
 「言われてみればそうじゃのう。庭も細やかに設えたというわけにはいかぬが、荒れ放題というわけでもない、この程度ならいっそ風流」
 「だが、軒先に道具ひとつ出ている様子もないではないか」
 「いや鬼龍、だからこそ薄気味が悪い。人の住まぬ家は気配が荒れる。ひと目見てわかるほど荒れる。この屋敷にはそれがない。そういう目で見るならば、ここには人の気配があるのだ。とはいえ暮らしている様子はない、となると、」
 「それじゃ、とんだ某院(なにがしのいん)、それとも落窪の姫君のお住まいかしら」
 吉野の肩越しに崩れた築地の中を覗き込んだ芙蓉が言う。
 「なんだそれは」
 「某院なら逢引の場所になるけれど嫉妬に狂った生霊が出る、落窪の屋敷なら可哀相な姫(ひい)さまが蟄居(ちっきょ)させられている」
 「ふむ、どちらにしろ人が住むのだな。なら、」
 鬼龍、吉野にむかって顎をしゃくる。
 「お前、一番目端が利くのだから、ちょっと声をかけて来い。ああ、客としてまっとうに玄関から行け」
 吉野はひとつ頷くとすたすたと築地沿いに歩いていく。やがてたどり着いた門は開け放たれ、ひっそりとした屋敷の様子が外からも伺えた。

 「もし、どなたかお住まいでいらっしゃいましょうか」
 瞬き三つ分ほど逡巡した後、吉野はそう、奥に声をかけた。
 と。

 ふつり、と楽の音が消えた。
 微かな微かな楽の音が屋敷の奥から漏れており、吉野が呼びかけるのと同時にそれが途切れた。消えて初めて、大気の中にその音が響いていたのがわかるような音色であった。
 いかにも怪しい。
 このまま何かが起きるのを待つか。
 それとも何も応え(いらえ)がないうちに、そしらぬふりをして仲間のもとに戻るか。
 そう吉野が思ったとき、からりと音を立てて明かり障子が開いた。
 「どなたさまでしょうか」
 声とともに顔を見せたのは、白髪の老女である。年老いてはいるものの、若い頃はさぞかし美しかったろうと思われる品のいい面差し、まとっている衣も質素ではあるもののみすぼらしい様子もなく、人品決して卑しからぬふうである。ただ、その老女、門の方を向いてはいるが、吉野を認めたふうではない。彼女の顔がふと上向いたときにも、その両の瞼は閉じられたまま動かない。屋敷の老女は盲(めし)いていた。

 「旅の者です。お屋敷の軒先にでも一夜の宿をお借りいたしたく、声をかけました」
 とっさに口から出任せを言う。何、今なら芙蓉が風にもあたったことのないような嬢様に見える、もう少し歩けば里に出るからそこに向かえと言われたら、連れがもう歩けないとでも言おう。
 しかしその心配は無用であったとすぐ知れる。
 「まあ、それはさぞかしお困りでいらっしゃるのでしょうけれど……お姉さま、どういたしましょう」
 老女は奥の方に声をかけた。
 姉というのはさきほどの楽を奏でていた者たちか。やはりここには人がいくたりも暮らしているらしい。確かに盲いた老女一人では生きてゆけるはずもない。

 「ご迷惑とは存じますが、どうぞ少しだけ休ませてくださいませ。怪しいものではございませぬ、都からわけあって東国の知り人を訪ねるところなのです」
 いつの間に寄ってきた芙蓉が、細い声で訴えるように言った。
 「最前よりのなんとも雅な音色、思わず涙がこぼれました。都を出てはや幾日、久しくあのような楽の音を聴きませなんだ、今となってはいかにも懐かしく」
 「それにあの桜、」
 鬼龍も門前に立っていた。
 「都を出たときはまだ春も浅く、花も見ずに参った。今ちらと見ればいかにも見事な枝振り、咲きぶり。今年は春が遅いせいか道中花のひとつもない侘びしさ耐え難く、どうかお屋敷の桜を見せていただきたい」
 これは何だろう、やんごとない姫さまと北面の武士あたりの取り合わせと老女には思われているのだろうかと吉野が呆れ顔を背けながらふと考えたとき、玄関の戸ががたりと開いた。
 「どうぞ、お入りになってくださいませ」

 開いた戸のほうを向いて三人、息を呑んだ。
 老女が姉と呼んだ以上、同様の老女が出てくるものと思ったが、戸の隙間から半身を出して覗いたのはもっと小さな姿。有り体に言うならば人の顔ですらない。 

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2010年05月08日

第3幕『勿忘奏楽』その2

 もうここまでくれば犬も追ってこないかとようやく女たちが足を止めたところで、もし、と涼やかな声。振り向けば
 「あれまあ、験者(げんじゃ)さま」
 「こんなところに、なんてきれいな」
 若い方の女がそういって、微かに頬を赤らめた。
 声をかけたのはもちろん小滝である。普段より少し声を低く落とし、そうするとすっかり凛々しい美少年の修験者の体(てい)である。ああ、験者さまがいらっしゃるというのにわたしどもときたら生臭ものを持って、と、女達が慌しげに道の端に避けかけるのを
 「ああこれ、わしはまだこれより勧行(かんぎょう)に向かおうという身、生臭ものを口にすることはならぬが、わざわざと遠ざけるには及ばぬ」
 それよりも随分と急いでいたようだが、何かあったのか。

 犬が出たのですよ、と若い方の女が言った。
 「なに、犬が」
 「はい、最近の犬は性悪で人を喰ったりいたします」
 「なんと」
 これ、めったなことを言うものじゃないと年嵩のほうの女が言った。が、黙られてしまってはわざわざ追いかけた甲斐がない。それは捨て置けぬことだと小滝が言うと、娘のほうは勢い込んで
 「誰も見たものはないんですけれどもね。海岸に時々旅の人のものらしき持ち物が散らばっていたりするのですよう」

 となると年嵩の女も黙ってはいない。
 「その中に時々、髪の毛がついたままの皮の切れ端だの、爪の生えた指のかけらだのが混ざっているんです」
 「その隣で砂が蹴散らされ、なにものかが大暴れをしたあとが」
 だからきっと山犬が群をなして人を襲うに違いないのですよ、と、女たちは口々に言った。
 「山犬の群れが、のう。だが、あのものたちがそのような、人の欠片ばかりがちらちらと残るような喰い荒らし方をするものじゃろうか」
 「だからきっとものすごい数の群なのでしょう、ああ、恐ろし」
 年嵩の女はぞっとしたように首を縮めるが、若い女のほうは
 「だから本当に化け物、魔物の仕業かもしれないんですよう」

 これ、まためったなことを言うものでないと年嵩なほうが留めに入ってくるのをうまくかわして聞き出せば、どうやらまず、老婆の姿の化け物が出るらしい。海ぎわを歩いていると、どこからか声をかけられる。声の主を探すと赤子を抱いた感じのよい老婆で、ちょっと用を足してきたい、すぐ戻るから代わりにこの子の守をしていてくれと頼むのだという。親切心を起こして赤子を抱き取ると、老婆は丁寧に礼を言って姿を消すがいっかな戻ってこない。おかしいと思ううちに、腕の中の赤子がどんどんと重くなってくる。そうしてはっと気がつくと、もうそこまで潮が満ちていて、慌てて歩き出そうにも腕の中の赤子が胸にかじりついており、その手を見ればおそろしいような鉤爪、ぎゃっといって放り出そうとすると胸元から見上げて寄越した顔のおそろしいこと、目は火のように燃え、口は耳まで裂けていて……
 「なんとか赤子の姿の化け物を振り捨てて陸に逃げられればよし、そうでなければそのまま海に沈んでしまうというのですよう」

 「おお、そんなものが出るかもしれぬ道で犬がうろついていたなら逃げるも道理。さぞかし難儀をなさっておいでなのだろう、ここで行き逢うたが仏縁、魔避けの真言を唱えて進ぜよう」
 このままでは虹川某とやらの屋敷の話が聞きだせぬなと少しばかりやきもきしながら、小滝は女たちに向かって合掌し、真言を唱えてやる。
 「ありがたやありがたや。さっきは怖い目を見たけれど、こうして験者さまのお守りもいただけて、本当にありがたいことでございます」
 女たちは口々に礼を言い、そして
 「そういえば、験者さまはどちらへいらっしゃるのです?」
 ありがたい、渡りに舟と思うが、もちろんそれは顔には出さない。
 「わしは都より東国のほうに参るところ、このままこの道を行けば里に続いておるのかの」
 「ええ、それでしたらこのままずうっとおいでなさいまし」
 「ああ、けれど、」
 年嵩の女が別れの辞儀をしかけるのを、若い女が遮った。

 「ここをしばらく行くと、里に入る前に古い大きな空き屋敷がございます、そこには決して立ち入られませぬよう」
 「なんじゃの、そこも何か化け物が」
 「化け物が出るといわれているのでございますよう。それにこのところ、その屋敷の庭で怪しいことが」
 そうしてまた互いに台詞を取り合うように話す女たちの物語を継ぎ合わせてみると、話はおおよそこういうことだった。

 この道のしばらく先、といっても人里からするとまだ外れのほうに、大きな空き屋敷がある。これは虹川の大殿(おとど)の屋敷といって、昔、なにやらいざこざがあって都に居続けができなくなり、この地に所領があったとかで都からここまで落ちてきた、虹川某という貴族の屋敷なのだという。この人物はそのままこの地で没したのだが、跡継ぎはおらず、そうして屋敷だけが住む人もなく荒れ放題で残っている。その屋敷は虹川某の没後、化け物屋敷だか幽霊屋敷だかと化したようで、中に踏み込むと必ず怪異が起こる。というわけで取り壊しもならぬまま、今でもそこにあるのだそうだ。

 そして、その屋敷の庭の桜が咲いたのだという。

 今年は春の訪れが遅く、桜はおろか梅のほころぶのもためらいがちだというのに、どういうわけかその虹川の大殿の屋敷の庭の桜だけが、突然に咲き出したのだという。
 「桜といえば風流のものでございますから、麗しく咲いているといえば私どもも見に行きたいとは思いますが」
 「なにしろあのような恐ろしい噂のある場所でございますし、普段は早咲きでもないというのに突然に咲き誇ったという不思議、かえって恐ろしゅうございます」
 「血気にはやった愚か者たちが虹川の屋敷に踏み込んで桜を愛でながら酒盛りをしてみせるなどといきまいておりますが」
 「まだしでかした様子はございませぬ」

 ともあれそこは本当に恐ろしい場所、珍らかに花が咲いているからといって、うかと近寄ったりなさいませんように。
 そう女たちは小滝に念を押し、礼を言われるとまた上気したような表情になって立ち去って行った。

このシーンの裏側。
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2010年05月07日

第3幕『勿忘奏楽』その1

 海沿いをごとごとと列車は走ってゆく。静岡に入ってもうずいぶん来ただろうか。
 浅い春か冬の名残りか、傾きかけた日の中で、打ち寄せる波頭は鈍い灰色にけぶっている。

 「このあたりは、初めてですか」
 突然、隣から声がかかった。見ると、さっき乗り合わせた品のいい初老の紳士である。
 「いや、何、この変哲もない景色を熱心に眺めておいでだったから」

 自分はこのあたりの生まれなのだと紳士は言った。言葉を交わすうちになんとも好もしい人物であるように思えたので、つい、劇作の種を探す旅なのだということを打ち明けた。そうすると紳士は俄然目を輝かせ、
 「でしたらなかなか面白い話を知っていますよ」
 と言った。
 このまましばらく行った先に垂水(たるみ)の浦と呼ばれる場所があるという。そこは岩山が海岸近くまで迫り出し、岩の洞がいくつもあり、舟を出して海から眺めるとなかなかの絶景なのだとか。
 「その洞の中にはこのあたりの漁師が海神様を祭ったものもありましてね、陸側から回っていこうとすると岩場には足は取られる、飛沫には濡れるでちょっとした面倒な道なのですが」
 海側から眺めると、洞窟の口に白い注連(しめ)が渡され、なかなかすがすがしい良い景色なのだとか。

 「そのような古い社には、もう誰も拝むものがいなくなって、注連縄が落ちてしまったものもありましてね。そこに、化け物が住み着いたというのですよ」
 「ほう、それは」



 人里にも春を呼ばねばなるまいというので、一行は山を降り、東海道を急いでいた。とはいえ、雲つくような大男にいかにも人擦れのしない若者、修験者、そして妙に尻尾のふっさりとした白犬という取り合わせ。山人が所用あって里に降りて来たといって通らなければ、山に住む猟師か何かといった触れ込みを言い立てたならどうにか人を納得させられようかという面々ではあるのだが。

 京の都はすぐに出立してしまっていたから、それこそ吉野にとっては久しぶりの人里である。桜のことさえなければ物見遊山もさぞかし楽しいだろうにと口走っては、鬼龍にたしなめられながら先を急ぐ。そうするうちに駿河国(するがのくに)に入り、鈴鹿からは遠く望んでいた富士をまともに仰ぎながら海沿いを歩くことになる。その日は昼をずいぶんと過ぎて、そろそろ今宵はどこに宿を取るか目処をつけねばならぬと言うころになって、人と行き逢った。

 人は女の二人連れである。ぱらぱらと漁師の家のあるあたりも通り過ぎて来たから、おそらくそのあたりの女房や娘が近隣に物売りにでも行こうというのだろうと検討はついた。女たちは干魚を籠に入れて頭の上に乗せ、喋りながらぶらぶらと歩いてゆく。

 「そういえば、虹川の大殿(にじかわのおとど)のお屋敷で、桜が咲いたってね」
 「おや、今年は春も遅いというのに、よりにもよってあの屋敷で。ずいぶんと不思議なこと」

 耳聡く聞きつけた芙蓉は、三本の尻尾をきゅっと一本にまとめると、このあたりの野良犬のふうを装って、二人のほうにとことこと近づいていく。気付かれたらおびえさせない程度に物欲しそうな顔でもしておけば、魚の匂いを嗅ぎ付けて寄って来たそのあたりの犬とでも思ってもらえるだろう。

 ところが、二人の女は近づいてくる芙蓉を見たとたん、
 「あれ、こんなところに犬がいるよ」
 「山犬だよ、恐ろしい」
 と口々に言いながらばたばたと逃げ出すではないか。
 しまった、人里に放れ犬が出たら怖がられるのだった、と思い出したときはもう遅い。

 「芙蓉! 戻って来い!!」
 道の向こうで吉野が声を上げる。あれまあ、山育ちの猟師が飼い犬を呼ぶ名にしてはずいぶんと雅なこと、と、自分のしでかしたことを棚に上げながら芙蓉は駆け戻り
 「虹川とかいうお屋敷で、時ならず桜が咲いたって。誰か行って話を聞いてきてよ」
 と、ぬけぬけと言ったものである。

 「では、わしが参るとしよう」
 呆れたように応えて小滝は走り出す。その足が地を蹴ったかと思うと、大して早くもない女たちの逃げ足に、小滝はもう追いついている。それを横目に見ながら鬼龍は芙蓉の首っ玉をぐいと押さえつけた。
 「まったくろくなことをせん犬ころだ、キャンとでも言ってみろ、そっ首叩き落してくれるからな」
 待ってよ、あの人たちこっちに気付いちゃいない、手を離してよ、と芙蓉は人間の言葉で悲鳴を上げ、よけいぎゅうと締め上げられて情けない声を上げる。
 もちろんその時には道の向こうで、小滝が女たちに追いついて声をかけているのだが。


このシーンの裏側。
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曙草東道行:第3幕『勿忘奏楽』前口上

 というわけで、主にDMの趣味で“東方プロジェクト”風味を混ぜながら遊んでいる中世日本D&D4版キャンペーン、『曙草東道行』第3回レポートです。

 いつも、遊んだ人だけに見えるところで下書きしてから一気にこちらにアップするという方法を取っているのですが、それがなんだか偉く評判悪い。なかなか更新がないと思ったら、ある日いきなりどかっと薄い文庫本1冊くらいにはなろうかという量が更新されているのでは読むほうはちょっと読みづらいとか何とか。

 ……というわけで、今回から、物語にしっかり裏側をつけながら1日1〜2エントリずつアップする短期連載型にしようかと。ちょっとはマシかなぁ。マシだといいなぁ。

 前回までは鬼龍(ゴライアス・ファイター)、吉野(ヒューマン・ローグ/ファイター)、小滝(エラドリン・ウィザード)、芙蓉(キツネ・バード)、そしてNPCの妖夢(シャダーカイの……ええと何だっけ、ファイター?)という陣立てだったのですが、妖夢は幽冥界のあるじ様のところに、今回の事件の発端となった“顕界の桜の初枝をすべて集める”事の経緯と是非を問いただしに帰り、今回は7レベル4人のパーティーです。

 春もまだ浅い頃に京の都を発った一行、五条大橋でひと騒動し、次は鈴鹿の山中を抜け、となると今回は岐阜高山の味噌買い橋あたりが舞台ですかと予想のお便りまでいただいたりしたのですが、どうやらそのまま東海道に抜けたようで今回の舞台は海沿い、駿河国、垂水の浦です。

 ……次回までに道筋がさくっと見えるよう、白地図に書き込みしたのとか用意したほうがいいかなぁ……

 では、曙草東道行・第3幕、『勿忘奏楽(わすれなのそうがく)』物語第1回の更新は本日夜半ごろに。
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2010年02月15日

第2幕『山中遇鬼』その11



 「酒呑童子の身体は今度こそ首を亡くしたわけですな。かつてその首だった小鬼がそれを嘆いたかどうか……」
 館長は窓の外を見て湯飲みの茶を飲み干した。
 「ともあれ、その小鬼は鈴鹿の山塞に残ったようです。自分の身体が陰の鬼と化し、桜の名所を陰に沈め、この地に害をなしたことを恥じその後始末をするために。後始末といっても、まあ、宴会なのですがね」
 「宴会?」
 「そうです、陽の鬼が宴を開くことでこの地に陽の気が振りまかれていたのだというのですね。そこで、」
 言って、館長は机に積んだ書物をごたごたとかき回し、一冊を取り出した。

 「これですかね。十日に一度、山の祠にお神酒を捧げるという風習のある村がありましてね。場所としては先ほどお話した伝説とは少しばかりずれるのですが、おそらくこれが元でしょう」
 酒好きの伊吹童子が酒を切らさずに楽しく呑んで陽気を振りまけるようにとのことだったのでしょう、と館長は鹿爪らしい顔で、口調にはまるで似合わぬことを言った。



 おそらく、と、私は思う。
 その後、伊吹童子は陰気をすっかり払うまで、楽しくやったに違いない。
 300年を彷徨いながら生きてきた遊行の小狐は、そういえば妖夢のこともひどく気遣っていた。だからもちろん身体を失い、身体に裏切られた伊吹のことにも気を回したのだろう。

 ――これからみちのくまで行くのなら、陽の鬼に会うかもしれない。そうしたら、大江の酒呑が……いや、鈴鹿の伊吹がよろしく言っていたと言っておくれよ。そうしたらきっといいように取り計らってくれるから。
 ちっぽけな小鬼は小狐の頭から滑り降り、板の間にちんまりと立つとこんなことを言うのだ。
 ――もちろん。そうして忘れずに言うよ、鈴鹿の山塞に、旨い酒と肴を持って遊びにいってやって、と。大酒呑みの童子が呑み仲間を待っているから、と。
 小狐が言うと、それまでかすかに拗ねたようだった伊吹童子の顔が、最後の曇りをぬぐったように晴れやかに、嬉しそうに笑うのだ。

 妖夢はどうしたろう、と、館長の話を聞きながら私はぼんやりと思う。
 彼女は――きっと彼女は幽冥界に帰ったろう。事の次第をあるじに問いただすために。

 ――では、私はここでお別れいたします。そうして幽々子さまに春を集めるわけをうかがい、事と次第によってはお諌め申し上げます。
 口を引き結び、なにか覚悟を決めたような武者姿の娘が言う。
 ――ふむ。だが、命は大事にな。
 小滝坊が初めて妖夢に笑いかける。虚を付かれたような妖夢。もちろん諌めるとなれば腹のひとつやふたつ切る覚悟だったのだ。ひとつしかない腹、ふたつは切れまいが。

 ――図星か。だが、ぬしには命を助けてやった貸しがある。それを返すまで死なれては困る。
 ――おれはあんたに命を助けてもらった借りがある。それを返すまで死なれては困る。
 鬼龍と吉野が口々に言い――やがて妖夢の凍りついたような表情も、どこか恥ずかしそうに、何か嬉しそうに、解けるのだ。

 ――お主(しゅう)と話がすんだら、また追ってきて。桜が咲き初めるところにあたしたちはいるから。



 「どうかなさいましたか?」
 もう一口茶をすすって、館長は言った。
 「……いえ、考えていたのです。あの山の奥で、そうやって鬼や天狗や狐が活躍していたのか、と」
 「そうですとも」
 館長は嬉しそうに言って、それから立ち上がってひとつ伸びをした。

 「どうぞ、よいお仕事を。お作のいずれの上演を楽しみにしております」
 見るともなく館長の視線の先を追うと、鈴鹿の山が春を待つようにうっとりとまどろんでいる。
 どこかで微かに花と酒の香がしたように思った。
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第2幕『山中遇鬼』その10

 いよいよ扉に手をかける。
 生臭い風がふっと臭った。
 扉を開け放つ。

 板敷きの広間の中には鬼が六匹ばかり。小柄な赤鬼が四匹、黒鬼のこれは見るからに大将格なのが一人。そうして中央で大あぐらをかいているのは。

 「あ、あたしの身体!!」
 いつの間にか芙蓉の尻尾の間から這い出した伊吹が、悲鳴のように叫んだ。

 鬼の砦を統べるのは、豊満な体躯を誇る艶やかな鬼女。
 鬼龍を遥かに凌ぐ巨躯だが、醜いどころかむしろ圧倒されるほど美しい。はだけた衣の胸元からはちきれるほどの胸をこぼし、 その上から胴丸鎧を着込んでいる。
 それが、小狐の頭の上にしがみつく、ちっぽけな小鬼の身体だったという。
 肩の上が空洞でないところを見ると、身体を失った首が霊力でちいさな身体をこしらえたように、首を失った身体も新しい首をこしらえたらしい。が、首をなくしたときに陽気を失ったか陰気に侵されたか、その身は以前とは似ても似つかぬ化け物と成り果てている。

 「あんたの身体。それじゃ……」
 吉野が言いかけるのを、伊吹は声を限りにさえぎった。
 「やっちゃって! やっちゃってよ!!」
 芙蓉は一歩下がると、叫びたてる小鬼を頭から振り落とし、しっかと尻尾に巻き込んだ。
 「大丈夫、あたしたちがちゃんとするから。隠れていて」
 その間に鬼龍がずかずかと進み出る。
 広間の中央、鬼女と黒鬼大将をまともに見据える。
 「来い。寄らば斬る」
 鬼女は立ち上がりざまに金棒を手に取ると、目の前の膳を殴り飛ばした。が、鬼龍、ぴくりともしない。
 「寄れぬか、腰抜けが」
 その背後では小滝の手から再び冷気がほとばしる。四匹の赤鬼がころころと面白いように倒れる。黒鬼が踏み込むが、そこには吉野が双剣を構えて待ちうける。
 「いくら大将どのでも、手下が綺麗さっぱり氷漬けじゃあ、なあ」
 妖夢がひと足ふたあし詰めたかと思うと、もうその姿は吉野と黒鬼大将を挟む場所にいる。
 じり、と芙蓉が足場を移した。何に備えてか、低く謡い始める。

 黒鬼の腕が閃いた。長柄の槍がざくりと吉野の脇をこそげた。と同時に鬼龍の大鉞がうなる。鉞が命を得たかのような軌跡を描く。鋼鉄の蛇が鬼女の胸元をがっきと食い破った。豊かな胸元がごそりと抉れ、赤黒い血が噴きだした。
 無言で鬼女は一歩を踏み出した。金棒を振り上げ襲い掛かってくるかと鬼龍は鉞を構えて防ぐが、それには目もくれぬ。そのまま空いた手で壁に取り付けられた鉄輪をつかむと、鬼女は力任せにそれを引いた。異様な気配に飛び退るが、もう遅い。がらがらと鎖のなる音と同時に、鬼龍の足元がぽかりと口をあける。とっさに跳ねた吉野は、穴の縁、危ないところでたたらを踏んだ。
 鬼龍は穴の底に叩きつけられ、が、その上の中空に飛びあがった鬼女はそのまま落ちては来ない。鬼どもは飛べるのだ。

 「鬼龍、大事ないか」
 小滝が呼ばわると、鬼龍は身軽く立ち上がり、にやりと笑った。
 「おお、都の橋よりは落ちがいのある罠であった。構うな、岩壁ならおれが庭よ」
 その暇に吉野が穴の縁を回りこんで鬼女の前に飛び出す。
 「とっとと降りてこい、それともここから喉首貫かれて死ぬか」
 「まあ焦ることはない、飛べるといってもあの不恰好さを見ればたかの知れたもの」
 小滝が冷たい笑みを含んだ声で後を継ぎ、そうして無造作に掌を突き出した。
 「さて鬼に雷の壁が効くものか知れぬが、まぁ役にたたないこともないであろ」
 役にたたないどころではない。言葉の終わりと同時にその場に火柱が立つ。黒鬼大将は長柄の槍を振り回すもむなしく穴の縁まで押し遣られる。と、そこには平地を駆けるように岩壁を駆け上った鬼龍の鉞が待ち構えている。間合いを詰められた黒鬼大将が槍を手繰り寄せる暇に、鬼龍の鉞は風をまかんばかりの勢いで黒鬼を打ち据え切り裂き押しひしぐ。鬼女も火柱が立った勢いでよろめくと、たまらず床に降り立った。
 「後は吉野、鬼龍、ぬしらが好きなように刻むがよいわ、わしの派手な大技は打ち止めじゃ」

 とはいうものの、前座の鬼どものようにはいかぬ。鬼龍がいかに切り立てようとも黒鬼は倒れる気配もない。と見る間に鬼女がいかつい金棒を振り上げるや吉野を打ち据えた。双剣で受け流そうとしたが手元が狂い、あっという間に吉野は血だるまになってその場に転がる。
 
 芙蓉が血相を変え、声を張った。狐の喉からほとばしる激しい一節にあめつちが感応したか、吉野の身体を支えていた床がわずかにかしいだ。打ち下ろされる金棒の下から血みどろの身体がころりと転がりだす。臓腑が破れて噴出したかと見えた血も不思議と止まっている。
 虫の息の吉野に妖夢が駆け寄った。力ない身体を抱え上げると懐から霊薬の瓶を取り出すし、中身を半開きの口に流し込む。と、吉野の目がぱちりと開いた。
 「妖夢?」
 「気がつきましたか。まだ終わっていません」

 死にかけの愚か者はどうでもいい。
 鬼女は目の前に飛び込んできた小狐を睨み据えた。三本尾があるからには相応の経立(ふったち)だろうが、畜生の分際で鬼の邪魔をするか。
 動けない。眼光に射すくめられたか。芙蓉の背を冷たいものが走った。このまま叩き潰されるのかしら……いや、試してみるがいい。芙蓉は鬼女から目を逸らすと、ふっと息を吐いた。蒼白く燃える狐火がいくつも浮かび上がる。それを鬼龍ともみ合っている黒鬼大将のほうに飛ばしてやると、そのまま背骨を打ち砕く金棒を覚悟した――が、それはいつまでも降ってこない。

 「無茶をするでない、さっさと退け」
 小滝の声に振り仰ぐと、金棒はとっくに宙を薙ぎ、頭の上では小滝の放った霧の壁に両の目を塞がれ慌てる鬼女の姿。好機と見た鬼龍が黒鬼大将を突き放し、鉞を風車のように振り回しながら駆けてくる。妖夢の膝から半身を起こした吉野もバネ仕掛けのように跳ね上がる。目を塞ぐ霧をどうやら拭い取った鬼女の周囲を白刃が取り囲む。そうして鬼女のせめて背後を守ろうとする黒鬼大将の足元で
 「いいえ、あんたは私と遊ぶの」
 牙を剥いた小狐が人間の声で笑う。小狐にまつわるのか、鬼の身体に絡みつくのか、蒼い狐火がちりちりと黒鬼大将の身体を苛む。

 黒鬼大将の足が止まったのをちらりと見ると、鬼女は覚悟を決めたようにがらりと金棒を投げ捨てると身を沈めた。
 「来るがいい、虫けらども」

 ごう、と風が鳴った。谷へと駆け下る颪の音であった。森を倒し巌を砕き川を埋め山肌をうがつ山の身震いであった。跳ね上がった吉野に猿臂(えんぴ)が伸びた。つかみ上げた。その身体が二間も投げ飛ばされたと思ったときには鬼龍の身体が宙を舞っていた。芙蓉も木の葉のように宙に吹き飛ばされた。大江山悉皆殺(おおえやましっかいごろし)、と叫んだのは鬼女だったか尻尾の中の小鬼だったか。

 が、それまでだった。鬼龍の息の根を止められなかったのが命運の途切れ、もう一度金棒を手に取らぬうちに鬼女の首は飛んだ。後を追うように黒鬼も倒れた。心の臓を狐火が焼ききっていた。
このシーンの裏側。
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第2幕『山中遇鬼』その9

 山が深くなるにつれ、雲行きが怪しくなってきた。花曇かと思えた空は、やがて黒く低く垂れ込め、遠雷さえ耳を打つ。と見る間にぽかりと道が開け、崖を背にして砦作りの巨大な館が巨大な門を構えている。
 「これか」
 「これだよ、変わってないねえ。扉が閉じてるの以外は」
 芙蓉の頭の上で伊吹が答える。目の前の門は、呆れるほど頑丈そうな鉄扉をぴたりと閉じて収まりかえっている。
 「どうやって入る、門よりほかに道はあるのか」
 「さあねえ。門以外から入ったこと、ないからねえ」
 抜け道はないか、いや背後の崖から降りるべきかとひとしきり首を捻ったが、もう少し酒を飲めば思い出すかもしれないなどと言っていた伊吹が徳利一本空けた途端、
 「真正面の出入り口以外、知らないよ。もういいからどーんと行っちゃいなよ!!」
 と、けらけらと笑いながら言い出したのでもう手の打ちようがない。うろうろしていて門内からなんぞ仕掛けられるよりはと、正面から行くことになった。

 まず、吉野が鉄扉にとりつく。
 耳を済ませると、なにやら鍋を叩く音、ばりばりくちゃくちゃとものを食いちぎる音。どうやら食事時らしい。鍵はとみれば、空いている。となれば小細工を弄する余地もない。残りの一行を招き寄せると、吉野はぐいと鉄扉を押した。扉は音もなく開いた。

 扉を開けると、むっと生臭い臭いが押し寄せてきた。
 玄関の間の中央には炉が据えられ、鍋の中で何かが煮えている。鍋を囲んでいるのは大将然とした赤鬼、青鬼。そして料理番らしき黒鬼が二匹。

 「まずいねえ」
 芙蓉が油断なく身構えながら、つぶやいた。
 「あたしの見たとこがまちがってなければ、あいつら、ろくでもなく強いよ」
 「見ればわかる」
 「それより強いんだ」



 「それはもう、大変な化け物どもだったのです」
 館長の声が熱を帯びた。
 「赤鬼は身の内に戦場の怒りを飲んでおりました。大将たるもの、なまじっかなものから傷を受けてはならぬのです。その怒りゆえにこの鬼は、誰かから打ちかかられようものなら即座に目の前のこしゃくなやつばらに飛び掛り、殴り飛ばすのです。それに赤鬼の手にした金棒は、殴ったものの神通力を封じる力がありました。
 青鬼も負けてはいません。これは刺股を得物としており、厄介な敵と見ればすぐさまその場に取り押さえます。それにその眼光ではむかうものを射すくめる力も持つのです。
 黒鬼はというと、これは赤青の鬼ほど隆々たる身体を持たぬ代わりに鎧を着こんでおりました。彼らは鬼の中でも選りすぐりの戦人なのです。打ちかかったものをその場で進むも引くもならないように殴りつけながら、口を開いて大声で呼ばわれば、たちまち天空から雷が降るのです」
 「絶体絶命ですね」
 「そうですとも」



 鬼どもは一斉に開いた扉を見やった。
 そうして異口同音に言ったものである。
 「おお、なんと気の利いた。今日は頼みもせんのに飯のお代わりが来たぞ」

 真っ先に青鬼が、刺股を手にするが早いかひらりと鬼龍に飛び掛る、首っ玉をつかまれるように地面にねじ伏せられた鬼龍はそのまま動けなくなってしまう。それを横目に、小滝がついと進み出た先は赤鬼大将のまさに目の前。
 「敵の選り好みをするとは高慢至極。手弱女の炎に灼かれるがいいわ」
 にい、と笑って、細い指で中空に印形をしるす。鋭い呼気と共に突き出されたその掌から無数の火球が飛んで炸裂した。危うく避けたは青鬼一匹、それでも飛び散る火の欠片がその肌を焼く。後はまともに燃え盛る炎の塊を喰らって肉の焦げる臭気がその場に立ち込めた。
 「逃がしゃあ、しねえぜ」
 身をよじった先に、両手に抜き身を構えた男を見て青鬼は息を呑んだ。男の片手の刃が火球の炎にただれた皮膚を裂く。なんとか突き放したと思ったときには、何ということか、もう一方の刃がざっくりと青鬼の臓腑を抉っていた。と同時に腹の中で火が燃え上がる。鬼の身体につきこまれる一瞬、緋色の光を帯びたのは赤猫丸の神通力が刀身から炎を噴いたのだ。刃の抜けた穴から熱い血が噴きだす。と同時に傷から火気がじわじわと身を焦がす。飛んでくる炎は避けられても、身の内に仕込まれた火種は消しようがない。
 「おれの技は全部見せた、あとはあんたらでしとめてくれ」
 血だるまになってよろめく青鬼から飛び退りながら吉野は叫ぶ。

 青鬼の力が緩んだのを見てとった芙蓉がすばやく鬼龍のもとに走り寄った。巨躯を抱え起こすようにして活を入れると、金縛りのように萎えていた足がようやっと伸びる。
 「ありがたい、助かった」
 身を翻すや鬼龍は先ほどまで自分を地面に縫いとめていた青鬼に踊りかかるが、息の根を止めるには至らない。

 赤鬼は目の前の修験者姿のこしゃくな女に殴りかかった。青鬼も再度鬼龍を刺股でその場に縫いとめる。が、そこまでだった。
 「結局はそれだけか。芸のない」
 額に流れた血をぬぐったかと思うと、ふっと小滝の姿が消えた。
 「しばらく、そこに居れ」
 いつのまにか数歩ぶんを飛び退り、そうしておいて地を凪いだ指の先から冷気がほとばしる。床が氷の牙を剥く。鬼どもの足がそのまま凍りつく。となれば討つべき相手は見えている。もう二合も打ち合わないうちに、ぶすぶすと黒煙を上げ、血を垂れ流していた青鬼は吉野に首筋を裂かれてそのままばったりと倒れた。

 「ようやく邪魔者が失せたな」
 鬼龍がにんまりと笑った。
 「刺股を持った奴を見たら最初に息の根を止めなきゃならんことだけは覚えた」
 いいざま浴びせ倒すように赤鬼に飛び掛る。させじと黒鬼どもがわらわらと取りつくが、かなうものではない。黒鬼どもを跳ね飛ばすようにして大鉞がうなる。赤鬼の肩先がざっくりと割れる。その刃鳴りが消えないうちに、小滝がさらに呪を紡いだ。中空が捩れ、そのまま刃になる。赤鬼の身体のそこここが捩じ切れ、ぷつぷつと細かい血が噴出す。
 邪魔立てしようとする黒鬼は妖夢や芙蓉が引き受ける。となれば後はもう鬼龍と吉野の刃がものの数回も閃けば十分。間合いを詰められ突っ込むにも勢いもつかず、赤鬼は鬼龍の鉞を鉄棒で打ったがそれが最後のあがき。たとえ手にしたものがなまくら刀であったとしても、鬼龍の膂力だけで鬼一匹、斬り飛ばせぬということはない。黒鬼が焦る目の前で、赤鬼大将はどうと倒れ伏した。

 「い、いけねえ」
 「とても敵わん、オヤカタ様を呼ぶんだ」
 口々に言いながら傷だらけの身体で黒鬼どもは奥へと走る。その先には扉が。どうやら赤鬼大将がここの首領というわけではなかったとみえる。

 「止めろ、新手を今呼ばれると厄介だ」
 傍を駆け抜けようとした一匹を鬼龍は思い切り殴りつけた。その横を抜けた一匹を、残りの四人がわらわらと追いかける。吉野の短刀も狐の牙もかすり傷しか追わせられぬ。みすみす逃すかと思ったとき、追いすがる鬼龍が勢いよく地を蹴った。黒鬼が皿小鉢を載せた机を蹴立て、転がるように逃げようとしたちょうどそのとき。
 宙を舞った鬼龍の足はすっくと机を押さえ込み、黒鬼の頭上から大鉞が落ちかかる。隣へと続く扉に手をかけところで、黒鬼は額から喉首までかち割られ、ぐしゃりとその場にくずおれた。

 これでもう、玄関の広間に動いている鬼は居ない。

 伊吹に聞くと、昔、この奥は一間の宴会場になっていたという。そうしてさっきの赤鬼大将がここの首領でないのなら、首領は奥の間に居座っているのだろう、と付け足した。というわけで、一息入れて、そのまま扉の向こうを陥とすことになった。
 扉は鉄扉。耳を済ましても向こうから何かがやってくる気配はない。扉の向こうには戦いの音も悲鳴も届かなかったものであろう。扉の前に机を積み上げ、油断なく目を配りながら、刃の血糊をぬぐい、負った傷の手当をする。

このシーンの裏側。
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第2幕『山中遇鬼』その8

 と。
 「あれ、嫌だねえ。せっかくの相撲場が」
 およそ場違いな声。
 芙蓉の絡まった3本のしっぽの間からもぞもぞと這い出してきた、伊吹である。
 「やだねえ、なんて陰気になっちまったんだ。嫌な臭いがぷんぷんするよ。あたしたちがここで酒盛りしてた頃は、桜もあんないやらしいものじゃなかったし、お天道さんかお月さんがきれいで、さもなきゃいい風が吹いて、居るだけで酒が旨くなる場所だったのにさ」
 「それじゃ、ここが間違いなくあんたたちの相撲場だったんだな。長者が鬼から瘤をもらったという」
 「そうだけど、ああ、ホントにこんな場所じゃなかったんだよ」
 吉野に答えながら、芙蓉の首に結びつけた瓢箪を持ち上げたのはもちろん中の酒を飲むためだが、伊吹はそこでふと手を止めた。
 「もしかしたら、陰の鬼の連中かもね」
 「……なんだ、そりゃあ」
 鬼龍が身を乗り出す。やれ桜の妖だ死を誘う気配だと言われればお手上げだが、鬼というなら鉞でぶった斬れるものだろう。
 「陰の鬼っつったら陰の鬼さぁ。あの陰気で悪趣味な連中」

 伊吹があちこち脱線しながら言い立てるのをまとめると、鬼にはそもそも陽の鬼と陰の鬼の二種類が居るらしい。陽の鬼は大力で大酒喰らい、にぎやかなことが大好きで騒ぐのも好き、そのせいでつい乱暴にも思われるが気のいい連中だという。陰の鬼はというと、大力と酒喰らいは変わらぬが、血生臭く悪趣味で人間を刺身にして喰ったりもするという。そうして抜きがたい陰の気をまとっているどうしようもない連中なのだとか。

 「あたしらはさ、都の近くに巣食って、物分りの悪い連中からちょいとばかりお宝を掻っ攫って、そんで酒買って楽しくやってただけなのにさ。それを陰の鬼といいようにごっちゃにしやがって」
 途中で悔しくなったのかやたらと酒をあおりながら勝手な人間どもの悪口雑言をわめき散らしだすのを慌てて芙蓉がしっぽの中に巻き込み
 「それじゃ伊吹は、この相撲場にたむろして、長者に瘤を渡したのは陰の鬼だと思うの?」
 「間違いないね!」

 だとすれば、と、芙蓉は桜を遠巻きにする面々を見て言った。
 冥界に封じられたという西行妖とこの桜との間の経緯(いきさつ)は知りようがない。けれどこの桜が妖となったのは、おそらくは陽の気が満たされることなく、陰の気を吸いすぎたため。

 あたしはこうして芸事をやっているからわかる。
 芸事を披露して皆を楽しませると、その場所が暖かくなるの。それが陽の気なんでしょう。
 「そうか、伊吹たちがここを相撲場にして大酒を飲んで遊んでいる間、そうやって陽の気が溢れていたのじゃな」
 小滝が言う。
。「わかったぞ、だが、伊吹が首だけにされて、鬼の仲間たちも散り散りになって、そうして代わりに陰の鬼がやってきた、と」
 吉野も言う。
 「では、ここでまた酒盛りでもすればよいのか。が、こうして亡骸が転がっている場所ではあまりぞっとせんが」
 鬼龍が言ったが、小滝は少し首をひねり
 「が、元を断たなければ話にならぬはず。伊吹、このあたりに陰の鬼が巣食っていたするかどうか、ぬしは知らぬか?」
 いままで蔵の中で毒水漬けにされてたんだ、そんなこと知るもんかと言いながら伊吹は周囲を見回し
 「でもこの陰気臭さ、連中きっとこの近くに居続けをしてる。……ひょっとしたら、砦に居座ってるかな」
 この相撲場に遊びに来るときの宿にしていた山塞が、この少し奥にあると伊吹は言った。きっと、そこに陰の鬼が居ついてる。

 「砦に鬼が立てこもっている、とな。では、殴りこむか」
 鬼龍が言った。
 「花びらを切っても突いても埒はあかん」
 にいと笑って吉野が続けた。
 「案内なら、するよ」
 伊吹が答えて、そうして一行はほの白く花びらを散らす西行妖をひとまず置いて、山奥へ向かったのだった。
このシーンの裏側。
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第2幕『山中遇鬼』その7

 長者が鬼の相撲場で貰ってきたのは福などではなく瘤の形の化け物で、そうして長者はとっくの昔に魔物に喰われてしまっていたのだと聞き、下働きの者たちはかえって安堵したふうであった。
 何でも瘤を貰ってきて以来長者殿は肉を好むようになり、それどころか自らどこからか肉の包みを手に入れてきてはこれを料理しろと言うことも度々であったという。
 「最初は知り人に腕の良い狩人でも居られるのかと思いましたが」
 時折その肉の塊に、人の髪の毛や爪の切れ端が混ざっていることがあり
 「薄気味悪くは思うものの、長者さまに耳元で何事かささやかれると、ぼうっとなってなにもかもそれでよいように思えてしまいまして」
 そのまま唯々諾々と肉を料理しては食卓に上げていたのだという。

 「それに近頃は近隣の村で神隠しが相次ぎまして」
 誰それが神隠しにあったと噂が伝わってくる時には、必ず肉が食卓に上っていたのだという。
 いぶかしく思うことも幾度もありましたが、何しろいつもほたほたと笑っている長者さまが、いざ何か話しかけようとするといかにも恐ろしく、肝から背筋からなにやらひんやりとした心地がいたしました、それでそのままにしておったのでございますと、家の者を束ねていたらしい男は青い顔をして言った。

 「ふむ。ここまでの経緯(いきさつ)は知らぬ。しかし長者にとりついていた化け物はわしらが退治てのけた。長者の骸(むくろ)についてはぬしらがよいように弔い、村の者たちにもわけを説いてきかせてほしい。余所(よそ)もののわしらが何か言うよりも話が通りやすかろう」
 小滝の言葉に応えて男は、
 「それは確かに。しかし長者さまは相撲場で悪い鬼に喰われなさったのでございましょうか」
 と、相変わらず震えの消えぬ声。
 「あたしらは人を喰ったりしないよぉ!!」
 それを耳にしたとたん、ちっぽけな小鬼の伊吹が声を限りに叫び出し、あわてて芙蓉はぎゅっとしっぽを巻き込んで小鬼の口をふさいだ。

 ともあれ、このあやかしの落とし前をつけるには、鬼の相撲場にゆかねばならぬ。そう小滝が言うと、村人は青い顔をして幾度もうなずいた。
 「あのような恐ろしい化け物がうろつく場所が近くにあるというのに、これではもう私どももここにこのまま住んでいるわけには参りません」
 あなたさまがたが鬼の相撲場にゆかれて一日一晩戻られなければ、我々も荷物をまとめてどこかに立ち退くことにいたしますと、男はいつまでもおびえたような声で言ったのだった。

 血ともなんともつかぬもので汚れた仏間は下働きのものたちに片づけさせておいて、一行は離れで昼近くまでゆっくりと休んだ。
 村を出るときには日は中天(ちゅうてん)にかかろうというところ。春が遅いとはいえ真昼の陽光に山は暖まり、昨夜の陰惨な気配は毛ほどもない。
 振り向けば、一行が通ってきた山の中腹までは、どことなし木々が柔らかくけぶっている。見上げる先に広がる鋭く厳しい冬の枝々が、背後では春の兆し(きざし)に応え、僅かに青みのかかった芽を角ぐんでいるのだ。
 「さて、ここにも春を呼んでやらねばなるまいな」
 歩きながら吉野が腰に指した曙桜の初枝を取って打ち振ると
 「おお、山が笑うぞ」
 鬼龍が嬉しそうに声を挙げた。
 通り抜ける風がふっと温み(ぬるみ)、全山を馳せ巡る。そうすると黒く冷たく凝っていた土が樹が、ほうっとため息でもついたように緩み、わずかに色を帯びるのだった。
 どこかで微かに花の香がした。

 「この春を、この春を奪おうとしていたのでしょうか」
 誰言うとなく妖夢がつぶやいた。
 「私のしていることが本当に正しいことなのか……」
 「ならば、あるじ様に聞いてみることだよ」
 芙蓉は気遣わしげに振り向いて言った。

 ほのかな花の香を聞きながらゆくうちに、ぽかりと開けた窪地に出た。
 窪地の真ん中には、枝振りのよい桜の大木。つぼみをつけてはいるものの、どれも寒々と縮こまり、まだ花の気配はない。
 「これが、かの西行法師に由縁(ゆかり)の桜」
 そう言いかけて鬼龍が歩み寄ろうとしたとき、吉野が低く叫んだ。
 「待て、人死にが」
 指さす方を見れば、枯れ草に埋もれるようにして、桜の根を枕に幾たりもの身体が横たわっている。衣服や髪からどのような人物であったかの見当はつくものの、その身体からは肉はすべて朽ちて落ち、枯れた骨が白々と残るばかり。何者かに襲われ斬られたふうでもなく、横たわる亡骸(なきがら)の着衣には乱れひとつない。ただこの桜の大木を屋根といただき木の根を枕にして眠りに落ちたまま再び目覚めることなく朽ち果てたかのように見える。目の前には骨ばかりが転がっているというのに、それはむしろ何か長閑(のどか)な眺めのようにさえ思え、それに気づいて吉野はふと身震いした。目を凝らせば、木の周りには鳥や小さな獣の死体もいくつも落ちているではないか。そう思うと、今度はそこが周囲から押し寄せる春に独り取り残された、執念く(しゅうねく)いびつな冬の領と見えた。

 「春がないから悪いのだ。おれが春を呼んでやる」
 いいざま吉野は腰の桜の枝を抜いた。大木に歩み寄り、大きく打ち振る。と。
 枝に凍えた蕾がはじけ、曙色の雲が広がる。と同時に膝からがくりと力が抜けた。まるで桜が吉野の生命を吸ってそれを花に変えたとでもいうように。ぐい、と引き戻されて、衣服の裾を白い小狐がしっかとくわえていたのに気づく。
 「危ない、見るからに怪しいじゃないの。この桜、きっと化け物だよ」
 「かもしれぬ、な。いや、おそらく妖かしなのだ」
 小滝が硬い声で言う。
 咲きこぼれる桜花から漂うのはのどやかな春の気配にも似て艶やかにまとわりつく永遠(とわ)の眠りへの誘い。陽光のもと降り注ぐはなびらに埋もれて死んでしまえたなら、それはどんなにか幸せなことだろうと思うのは、それは桜の妖気が見せる夢。花の香の代わりに幽冥の気があたりに充満し、もはやこの窪地はここだけが幽冥界と化したかと思えるほど。鬼龍が背負った鉞を降ろし、杖につく。そうでもなければ色香ゆかしき桜の大樹に魅入られ、ともすれば引き寄せられそうになるのだ。

 「これは、もしや……」
 妖夢は眉根をよせた。
 「なんぞ、心当たりが」
 「はい、調べて参ります」
 小滝と短く言葉を交わすと、すたすたと桜に歩み寄ろうとするのをあわてて芙蓉が止めた。
 「危ないじゃない。みんなああやって死んでいるのに」
 「大丈夫です、私は半分幽霊ですから」
 「それでも、何があるか知れやしない」
 というので何かあったときのために妖夢の腰に縄を結わえ付け、その端は芙蓉がしっかりとくわえて桜のもとへ。
 もう桜に触れるかというとき、急に妖夢の身体がぐらりと傾いだ。あわてて縄をたぐり寄せるとただでさえ血の気のない顔がいっそう土気色になって
 「間違いありません、なぜこの木がこうなったかは知れませんが」
 「やはり西行妖(さいぎょうあやかし)か」
 「はい」
 厳しく問うた小滝の声にこくりと頷く。
  
 西行妖とはつまり、西行法師が自らの辞世の望みについて詠んだあの

 願わくは 花のもとにて春死なむ この如月の望月のころ

 に由来しているという。
 その歌を詠み、そうしてその言葉通りに如月の望月、咲き初める桜花の頃に息を引き取った西行法師を手本と仰いだ風流人たちが、命の終わりを桜のもとで迎えるのが流行り、そうこうするうちに桜自らがわが身の根方で人が死を望むようにと人を惑わし引き寄せ命を奪う妖かしになったのだと。
 「人の血肉を吸った桜は、次の春、よりいっそう美しく咲いたと申します。あでやかな桜を見て、人々は、あの樹の下でこそ死にたいものよと言い交わしました。そうしてそうなったなら、再び三たびの春に、その桜はさらに美しく咲いたのです。そんなことを繰り返すうちに……」
 己のいっそうの美を望む桜が、人を引き寄せ殺すようになったのだ、と妖夢は言った。

 そうなっては西行の命を請けた輩である桜守も手をこまねいているわけにも行かぬ。
 「それを憂えた西行寺の当主は、妖と化した西行桜を幽明界に封じました。以来、顕界で死を誘う桜の咲くことは絶えてなくなったはずなのですが」
 そもそも、幽冥界に封じられて後、西行妖は咲かなくなったのだという。桜が咲くのに要り用(いりよう)な春の気が断たれたからであろう、と妖夢が言葉をついたとき、全員があっと息を呑んだ。
 「それは……あんたのお主は、幽冥界で西行妖を咲かそうとしているのではないか」
 鬼龍が声を挙げた。
 「地上から春を奪い、幽冥界で鎮まった西行妖に与えたならば」
 小滝が性急に数え上げる。
 「西行妖は力を得、その身の内に春が巡り、やがては幽明の境を越えて妖(あやかし)の春を盛りと咲き誇ることになる。幽冥の地で妖が花開くなら、それはこの世に何をもたらすのだ。何が起こるのだ、何が狙いだ。なぜ、なぜ西行寺の当代はそれを行なうのだ」
 「わ、わかりませぬ、私は何も聞かされておりませぬ」
 妖夢はたじたじとなって、二、三歩後ずさるが
 「けれどこの妖の花を萎れ(しおれ)させることはできます。この木から今年の春を奪うなら……」
 「それでは来年は、またその次の年は。見れば花がなくとも人は死んでいる、それも止むのか」
 「わかりませぬ、けれど私にはそれしか手立てがございませぬ」
 悲鳴のように声を絞り出す。

このシーンの裏側。
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第2幕『山中遇鬼』その6

 蔵には鍵がかかっていたが、吉野が小刀で錠前を2、3度つつくとことなく開いた。扉を引き開けると、むっとするような生々しい血の臭い。そこここに置かれた桶にはなみなみと血が溜まり、床にも点々とこぼれている。そうして天井からは肉を吊るすのにちょうどよさそうな鉤、壁に立てかけられた石の大まな板の脇には、牛一頭でも楽に捌いてしまえそうな肉切り包丁が添えられている。
 それだけではない。耳を澄ますと、熱に浮かされた子供とも聞こえる呻き声が、蔵のずっと奥まったところからかすかに、しかし確かに聞こえてくる。
 まるで床の間のように一段高くなった場所に据えられているのは
 「やれやれ、薄気味の悪い。――なんだ、これは、首桶(くびおけ)じゃないか」
 見たとたん吉野は声を上げる。しかし、確かに人間の首がひとつ納められるほどの、蓋をした桶の中からその高くか細いうめき声は聞こえて来るのだ。
 直に触れるは気が進まぬ。吉野はやおらその首桶を蹴倒した。中に満たされていたものがざぶりと蔵の床にぶちまけられ、そうしてその真ん中に、それこそ指にも足りぬ何者かが座り込み、情けない声でうめいている。
 「ううううう、気持ち悪いよおおおおおおおお」
 
 「……何だ、これは」
 首桶から転がりだしてきたのは、指の先ほどのちっぽけな童女。
 「鬼、じゃなあ。珍しい。悪酔いしておる」
 小滝が言うのも道理、その頭からは細い捩れた角が2本、高々と生えている。
 「ふぅん」
 ひょい、と芙蓉が前足でつつくと、そのちっぽけな鬼はぽてんと倒れて、もう一度泣き声をあげた。
 「ああこれ、悪酔いした鬼などという危ないものに触れるでない、腕を折られるぞ」
 「……ふぅん、じゃあ」
 芙蓉はひょいと後ろをむくと、尻尾の先でその小鬼を器用に拾い上げ、いつの間にか三本に増えていた尻尾を小舟のような形に窪めて、そこにひょいと放り込んだ。
 「悪酔いしてるんでしょ、可哀想だからお水でもあげてよ」
 おう、と吉野が天水桶から水をくんできてぶっ掛けると、小鬼は感謝するどころか
 「うわあああああん、酔いが醒めるよお、迎え酒したいー、迎え酒、むーかーえーざーけー」
 と尻尾の上で叫びだしたものである。

 「……ほう、酒はいかんかったんじゃないのか」
 呆れ顔をしながらも、鬼龍は酒を探す。隣の蔵に什器(じゅうき)と並んで酒樽があったので、徳利に2本ばかり持ってきてやると、小鬼は自分の身体の何倍どころではすまないような徳利を嬉々として抱え、ごくごくと酒を飲み始める。瞬く間に1本飲みきってしまい、
 「もうないの?」

 「ないこともないがの、その前に答えてくれんかの。ぬしは一体何ものじゃ、何でこんなところに居るのじゃ」
 さすがの小滝もこのときばかりはつい身をかがめ、そのほっそりとした手に小鬼を拾い上げそうになったが、小鬼はその手に空の徳利を押し付け、
 「何でって……首を切られちゃってさ、そんで閉じ込められてたのよ」
 「首を切られたって?」
 「そ、だから首桶に入ってたでしょ」
 そうか、首を切られて神通力も出ないようにされてここに閉じ込められていたのだな、と、床にぶちまけられた液体のにおいを嗅いで顔をしかめた小滝が言う。
 「この首桶に詰められていたのは神変鬼毒酒(しんぺんきどくしゅ)といってな、人が飲めば薬になるが鬼が飲めば毒になる、そういう酒よ。昔大江山の酒呑童子を退治るといって源頼光が出立(しゅったつ)するときに、神々から授かった酒でな」
 「……え、じゃあ鬼さん、あなた酒呑童子なの?」
 いい加減尻尾が攣りそうになった芙蓉が、小鬼をぽいと頭の上に放り上げながら訊ねる。
 「……そう呼ばれてたときも、あったねえ」
 小鬼――酒呑童子はそういってちょっと遠くを眺めるふうにした。
 「しかしあんたは、小さいとはいえ首も身体もあるじゃないか」
 鬼龍が言う。と、童子は
 「嫌だなあ、あたしの身体はこんなにちっぽけじゃないよ!! それに首だけってのもあんまり趣味が良くないじゃないか」
 どうやら首だけにされて毒水に漬け込まれたとき、なけなしの神通力を振り絞ってこんな姿に変化(へんげ)したものらしい。

 その一寸法師のような童女の小鬼は狐の頭の上からぐるりを見回すと、ふと吉野に目を留め、顔をしかめた。
 「……あんた、人間?」
 「確かに人間だが、天狗のとこでずっと修行してたから、人界のことはあまり知らんぞ」
 「……ふぅん、でも、人間なんでしょ。まさかお侍なんかじゃないよね?」
 「侍がこんな汚いなりをして、木の葉綴り(このはつづり)の怪しげな鎧など着るものか」
 「わかんないよ、人間ならどんな汚いことだってやるもの」
 確かにこの小鬼が酒呑童子なら、源頼光に騙し討ちに討ってのけられた恨みが深いは道理。
 「で、今回はなにをたくらんでるのよ」
 まぁ、ただの絡み酒かもしれぬのだが。
 「あのねえ、恨みが深いのはわかるけど、その首桶を空けてあんたを助けたのは吉野、その目の前の人間よ」
 とうとう呆れたように芙蓉が言った。
 「ついでにあんたがいるのはあたしの頭の上ね。人といってもいろんなのがいくらもいるわよ、ちょっとはわきまえなさいな」
 「……まぁ、天狗が育てたほどなら、信用してもいいのかもねぇ」
 しばらく逡巡した後、小鬼はぽつりと言った。
 「あんたあんまり人界の臭いしないし」

 二本目の徳利を幸せそうに抱えた小鬼は、酒呑童子というのは昔の名だからといって、伊吹と名乗った。こうして首にされてしまう前は、大江山だけでなく各地の山に山塞を構え、花の季節には花の美しい里、紅葉の時期には紅葉の見事な山と経巡りながら旨い酒を呑んで過ごしていたのだという。
 この地もぬしらの酒盛り場所であったのかと小滝が問うと、伊吹は酒でほんのりと上気した顔を上げて懐かしそうにいった。
 「ああ、そうだよぅ。鬼の相撲場っていってねえ。一本だけだけど見事な桜があった。桜まみれの場所もいいけど、そういうのも風情があっていいもんだよ。それに、」
 この村の男がよく遊びに来てくれてね。あいつほんとにおもしろい舞の上手だったよ。そういえばあいつどうしてるだろう。ほっぺに瘤をひとつつけてたんだけど、踊るのに邪魔そうだからとってやったんだけどさ。
 「それはあんたが首にされる前の話か……なら、三代前の長者どころの話ではない。はて、」
 鬼龍が首を捻る。
 「なんだい、あの舞の上手を知ってるのかい?」
 「いや。ただそういう男がいたという話だけは、な。その、おぬしが瘤を取ってやったという男はとっくにこの世のものでないことだけは確かだが」
 「ああ、人間はすぐ死んでしまうものねえ」
 そういって、伊吹はくぴりと二本目の徳利の最後の1滴を飲み干した。
 「だが、その何代か後の長者がやっぱり鬼の相撲場に行って鬼に会ったというのじゃよ」
 「え、それは……銀熊、星熊?」
 「知らぬよ、それはぬしの仲間の名か?」
 「あたりまえさぁ。一人で呑む酒も旨いけど、仲間と一緒ならもっと旨い。金熊、銀熊、星熊……茨木もいたねえ」
 「……じゃあ、そのうちの誰かが当代の長者に瘤をつけたのかしらん」
 芙蓉がぽつんとつぶやくと、頭の上の伊吹は聞き咎めてて、訝しそうな声を上げた?
 「え? 鬼が瘤をつけたりとか、そんな器用なことができるもんか。鬼は取るだけだよ。ぶちぃっ、ってね。それとも何かい、そんな器用なのがいたのかい?」
 「まぁ、おったのじゃろうな。そもそもが鬼ではないのかもしれぬ。長者殿はとんだ瘤をつけられたようだが」
 となれば鬼の相撲場はそれこそ何が出るかわからぬ場所ということになるが、そこの桜にはどうでも用がある。花の時を逃してはならぬ、急ぎたいには急ぎたいが、これから行けば着くのはちょうど丑三つ時、性悪な魔物どもが跳梁跋扈しているに違いなし。ここは一晩休んで夜が十分に明けてから、昼日中に桜のもとへ行き着くように出ようと、そういうことで相談がまとまった。

  まとまったところで、急に母屋の方が騒がしくなる。
 「しまった、あの長者の亡骸を斬り散らかしたままにしてしまった」
 吉野が言う。
 「何、あの場を見れば長者どのがまっとうな身の上ではなかったことなどすぐ知れる。こちらの身の証の立て様はいくらもあろうさ」
 「確かにこそこそしてはかえって身の証が立つまい、ゆくぞ」
 そう、小滝と鬼龍が言って、一行ぞろぞろと母屋に戻った。

 母屋の方では血と泥と何やらわからぬべたべたしたものにまみれた仏間を遠巻きにするように、家人たちが集まっている。瘤がひとつだけになって痩せさらばえた長者の亡骸に何やらひそひそ囁き交わしているが、血刀ひっさげた一行が戻ってくると何やら得心の行った顔になった。
 「お客人、これは」
 「長者どのの、おそらくは抜け殻であろ。わしらが見たときにはとっくに人のするような息をしておられなんだ。おおかた二つ目の瘤をつけて戻らしゃった時にはとっくに魔物に喰われたあと、帰ってきたのは長者どのを身のうちに呑んだ魔物だったのであろうな」
 小滝が言う。ところがその脇に三本尻尾の芙蓉がするりと滑り出てきてしまったものだから、
 「え、そんなこといったってあんたも化け狐」
 「これ、稲荷神のご使者に失礼を申すでない」
 言いかけた誰かをすかさず小滝は叱りつける。となれば瘤取り屋敷の使用人たちはもともと長者に薄気味の悪い思いをしていたことでもあり、小滝の人品卑しからぬどころかどこか人離れのした様に、そのまま芙蓉は天狐さま、小滝もただ人ではないということになる。

このシーンの裏側。
posted by たきのはら at 09:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 曙草東道行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第2幕『山中遇鬼』その5



 離れの一室。
 一同、わずかに開けた障子に手をかけ、膝元にそれぞれの得物をおいたまま、出ていった芙蓉が戻ってくるのをじりじりと待っている。と、突然母屋の方から凄まじい悲鳴が響いた。人の喉の出せる声ではない。
 「行くぞ!」
 手元の得物をひっつかむとそのまま走り出す。母屋のほうを見れば、床下から走り出す白狐、そしてその後を追って走り出してくる骨の化け物が五つ、六つ。小滝はそのまま庭に飛び降りる。

 「待てい! ぬしらの相手はわしが致す!」
 狐が飛び出してきたのは、母屋のおそらく仏間のあたりから。鬼龍と吉野は襖を叩きつけるように開けながら、そのまま廊下を走る。
 三枚目の襖を引き開けた刹那、吉野の目に映ったは地獄絵図。山台に人の首がいくつもいくつも盛られ、それぞれに恨みと苦悶の呻きをあげながら蠢いている。それが化け物の背中に生えた無数の瘤なのだと思い至ったときには、既にもう右手の赤鼻丸が瘤のひとつを切り裂いている。
 先に部屋に飛び込んだ吉野が、悲鳴とも喚き声ともつかぬ声を上げるのを聞いた瞬間、鬼龍は勢いよく床を蹴った。回り込んでいては間に合わぬ。鉞を大きく振りかぶり、体ごと二枚重ねの襖に突っ込む。血の臭いと死臭がむっと鼻を突く。振りおろした鉞は、しかし空しく宙を薙ぎ、化け物はゆるりと身じろぐ。もはやどこが元の長者でどこが異形の瘤かもわからなくなったそれが、どうやら自分に狙いを定めていたらしいと鬼龍が悟ったのは、ねじくれた手に生えた爪が己の腰のあたりをがっきと掴んでねじ上げたためである。背筋を冷たい汗が伝う。心に反して足が竦む。
 が。
 化け物が大鉞に気を取られた一瞬の隙を突き、重なりあった瘤を縫うようにして細い刃が長者の生身を貫いた。鋭く薄い刃が血脈を破り、瘤の間からどろどろとどす黒い血がにじみ、溜まり、滴り落ちる。と同時に肉の奥深くで刀身に込められた火精が弾ける。腐肉の焼ける胸の悪くなるような臭いが鼻をつく。ぼたぼたと腐った血を滴らせ、ぶすぶすと煙を上げながら、瘤はひとつ、またひとつ、歪んでで赤黒く焦げてゆく。
 ゆるりと首を振り向け、こしゃくなちびをたたきつぶさんとした刹那、ただならぬ殺気に化け物は思わず身を竦めた。
 「貴様の相手はこのおれだ、長者殿」
 瘤に押しつぶされた視界いっぱいに大鉞が迫る。
 振り抜いた鉞は、一度はごっそりと瘤を切りとばした。そうして露わになった長者の体を、今度はまともにざくりとえぐる。黒い血が噴水のように吹きあがった。とうてい人一人の体にとどまっていたはずの量ではなかった。血を垂れ流し、ちろちろと燃え上がる炎の舌を払いのけるすべもないまま、長者だったはずの化け物はふらつく足を踏みしめた。まずは目の前で大鉞を振り回す男を喰い殺そうと思った。そうすればこいつの力はそのまま手に入る。そうしておいて背後のこしゃくなちびも逃げていった狐も喰らってしまえばよい。いつものことだ。
 重い体を一歩前に進め、そのままつんのめった。遅れて走り込んできた妖夢がすれちがいざまにひと太刀浴びせたのである。化け物はたたらを踏んで床にばったりと倒れる。つむじ風のようにうなる刃が体を切り刻む。赤く染まる視界の中に、いくつもの瘤がごろごろと転がり落ちてきた。
 そして。
 肩と背がふうっと軽くなったと思った瞬間、長者は最後の息を吐いた。
 数多の瘤は一斉にずるりと長者の体から滑り落ちたかと思うと、もとから形などなかったもののように融け崩れ、そのまま床下を赤黒く染めた。後には痩せさらばえた老人の体が横たわっているばかり。

 その頃、庭では小滝が次々と術を繰り出す横で、芙蓉がかかとに喰らいつく骨の化け物に難渋していた。床下から這いだしたとたん立ち上がって追ってきた狂骨がよっつ、そうして腰から下を切り落とされたままなくしてしまったのを恨んで、他人の足をかじり落とそうとする踵かじりがふたつ。
 ぬしらの相手はわしがすると小滝が声を上げてくれたおかげで骨の化け物のいくつかはそちらに走ってくれたものの、周囲をすっかり囲まれ、あげく執念く踵に喰らいつかれるせいで得意の逃げ足もすっかり封じられている。庭の向こうで火柱が立ち、跳び退く狂骨を追い回しては巻き込んで砕くのを恨めしそうに見ながら、前足を振っても鼻面で除けようとしても歯を剥いたしゃれこうべはまとわりついてくる。
 うんざりしながらも数度噛みつくと、ようやく根負けしたのか、最後まで喰らいついていたしゃれこうべも砕け散った。

 痛む足でびっこを引きながら芙蓉がようよう屋敷の中に戻ると、他の四人が長者の亡骸を囲んでいた。
 異形の瘤はすっかり融け去り、残ったのは両頬の二つのみ。
 左側の瘤が、急にぴくりと動いた。そうしてまるで逃げ出そうとでもいうように、長者の体から離れる。
 すかさず、鬼龍が鉞を叩きつけた。
 きゅう、と小さな声を上げ、瘤は弾け散った。
 「これはいったい……」
 吉野が首を捻る。
 「さっぱり、見当もつかぬ」
 小滝が首を振り、妖夢も芙蓉も顔を見合わせるばかり。
 「……どうしようもないのなら、捨ておいて蔵を見ましょ」
 芙蓉が言った。
 「あっちの蔵の中で子供の泣く声がした」
このシーンの裏側。
posted by たきのはら at 02:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 曙草東道行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第2幕『山中遇鬼』その4

 運ばれてきた夕餉(ゆうげ)は、山奥の里であることを考えに入れなくとも十二分に豪華なものであった。数々の山の幸に加えて、腕の良い狩人でもいるのか肉までも皿の上に盛られている。椀を覗けば吸い物の実にも肉切れが浮いていた。
 「村人たちがああもやつれていると言うのに、我らだけこのようなもてなしを受けるのも心苦しいが」
 言いながら鬼龍が箸を取る。
 「いや、村人たちもこれだけのものを口にしながら、あのようにやつれているのかもしれぬぞ」
 まるでおかしくもないことのように小滝が言う。
 「それは、どういうことだ」
 「たとえば精気を吸われるとか」
 「それとも、さっきの白犬のように血を吸われるとかか」
 「……まぁ、おそらくそういったことだろうがな」
 淡々と言いながら、小滝は膳に盛り付けられた肉を摘んで選り分け、皿の隅に積み上げる。修験の道を修める小滝は殺生のものを口にしないのだ。

 どうしても並んでは膳に着こうとしない妖夢のために、少し控えたところに膳を据えてやってから、芙蓉は遅れて箸を取った。そうして吸い物の椀を手にしたところで、ふと何か、その匂いが気にかかる。何だろう、と思いながら一口汁を含み、悲鳴を上げて芙蓉は椀を取り落とした。
 「た、食べちゃ駄目、ここここここれ、ひ、人の肉……」
 なんと、と小滝が眉を顰める一方、鬼龍と吉野はげっと言って飛び上がり、慌てて縁側に飛び出すと、庭に向かって激しく吐き始める。
 「さすが妖狐どの、人肉の味がわかるのか」
 「あたしは畜生だもの、悪党を喰い切るにも牙を使うのだから」
 呆れるとも咎めるともつかぬ小滝の言葉に答えながら芙蓉はもう、狐の姿に戻って膳に付けられた肉をくんくんと嗅ぎ、獣肉はひとつもない、すべて人肉だと言った。
 「な、なぜ人肉がこんなところに」
 吉野がまだうまく回らぬ口で言うと
 「さあ、屍を捌いたか、それとも新鮮な肉を調達いたしたか」
 整った眉をすっと顰めたので、やはりこの天狗もいくぶんかは驚いているらしい。
 「し、新鮮な肉だと?」
 「狐どのが気づいてくれねば、次には我らがその新鮮な肉になっていたやもしれぬな」
 さすがに青ざめた鬼龍と吉野を他所に、小滝はもう涼しい顔ですまして皿の上の山菜を摘んでいる。
 「いちいちと大げさな。実を結ぶ木々も育つ作物も、何を肥やしにしているかわかったものではないのだぞ」

 このまま夜を明かすのも気色が悪い、それにこのままでは無事に夜が明かせるかもわからぬ。とにかくあたし台所の様子を見てくる、と芙蓉が言った。
 「じゃあ、おれも一緒に行こう」
 「いいえ、一人で行くよ。あたし一人なら見つかってもごまかせるし、狐に戻れば逃げてしまえる」
 吉野の申し出を断り、ふすまを開けてぱたぱたと廊下を走っていくのは、五歳になるかならぬかの、童女の幼い後姿。

 夕餉の支度を終えて片付けられた後らしい台所には、まだかすかに生臭い臭いが残っている。臭いのきついほうへとたどっていくと、戸棚の中に笹の葉でくるまれていくつも納められている塊は、紛れもなく人の生肉。が、それ以外には特に変わったところもなく、台所で人を殺めたり捌いたりしたわけではないらしい。
 ――では、どこかから運んできたのよね。出入りの跡はないかしら。
 勝手口から外に出てみるが、これまた変わった様子もない。背後には広い屋敷が黒々と静まり返り、目の前には土蔵が二つ並んでいるばかり。
 ――あの蔵の中かしら。
 忍び足で蔵に近づき、扉の隙間から中の様子を伺う。まさかこの中に人の肉が山と詰め込まれているのでは……が、特に怪しい臭気をかぎつけることもなく、代わりに
 ――子供?
 小さな子供がうめいているような声が、蔵の奥からかすかに漏れてくる。耳を澄ましても、声はまるで熱に浮かされてでもいるかのように、苦しげにうめくばかりである。
 ――あたし一人じゃどうもならない。急いで戻ってみんなを連れてこよう。
 すばやく狐の姿に戻る。回り込むのも厄介だ。床下を通っていけばすぐに離れに着ける。

 床下といっても、小狐が走り抜けるだけなら障りはないだけの高さはある。足音を殺しながら走り出し――芙蓉は慌てて悲鳴を押さえ込んだ。床下の一箇所に、白々としたしゃれこうべや人骨が、いくつもいくつも小山のように積みあがっている。
 ――ひ、人殺しが、人喰いがいる
 そのまま走って逃げ出しそうになるのを必死にこらえ、周囲を見回す。ここは母屋ならちょうど仏間のあたりのはず。この家の主人、つまり長者がいそうな部屋の下に。

 2、3歩後ずさったとき、足元でぱきりと音がした。からからに乾いた骨を一本、踏み折っていた。はっと息を呑んだ瞬間、がらがらと鎖のなる音がし、頭上の床が跳ね上がった。

 「みぃーたぁーなあぁぁぁぁぁ」

 ぽっかりと空いた床の上から覗き込むのは、間違いなくこの村の長、瘤取りの長者。だがその口はぬらぬらと真っ赤に濡れている。そうして今はもろ肌を脱いだその身体からは、腕といわず肩といわず背中といわず胴といわず腹といわず、ありとあらゆる箇所からぼこぼこと大きな瘤が盛り上がっている。しかもその瘤のひとつひとつには歪んだ人の顔が浮き、うねうねと蠢いているのである。変わり果てた長者のもともとの身体はふっくらとしていたとはいえ、確かに普通の老人の大きさ。だが今は、その身体から無数の瘤が盛り上がり、床下で竦む芙蓉の目からは小山のような怪物に見えた。瘤に埋もれた顔の中で、歪み裂けた長者の口がゆるゆると動く。
 「見たものは生かしてはおけぬ」
 「あ、あ……」
 芙蓉は一瞬その場に凍りついた。が、異形と化した腕がずるりと伸びてきた瞬間、はっと我に返る。そしてあらん限りの声で悲鳴を上げたとき、ぐしゃりと芙蓉の鼻先で人の顔が潰れた。長者が瘤をもぎ取って投げつけたのだ。そうしてもうひとつ。立ち竦む芙蓉の目の前で、長者は腹に生えた瘤をもぎ取る。
 「お前も喰ろうてやる……喰ろうてこの瘤のひとつにしてくれる……」
 投げつけられた瘤の勢いではね飛ばされ、そのまま芙蓉は床下から飛び出す。その視界の端で、床下に山と積まれた白骨がかたかたと音を立てて組み上がり、四つん這いのまま芙蓉を追って凄まじい勢いで走ってくる。
 ああ、どうしよう。
 このまま喰われてしまうのだろうか。
 そう思った瞬間、涼しい声が耳を打った。
 「ぬしらの相手はわしが致す!」

このシーンの裏側。
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第2幕『山中遇鬼』その3

 やがて、山中が切り開かれ、いくつも明かりが灯っているのが見えた。
 「あれが瘤取り村だ。ずいぶん昔だが、一度来たことがある」
 鬼龍が言った。山の中の里とも言うべき村で、山人の商売相手でもあり、また刳り物や細工物などを山に暮らす人々から買い付けては里に売る仲買のようなこともしているという。山人の交易に用心棒として同行することの多い鬼龍は、この村のあることを知っており、ここを今宵の宿にと考えていたのだ。
 「山を行くもののための宿も構えておったはずだ。行くぞ」

 ほら、もうこうなったら普通に同道したほうがいいでしょう、と狐姿のまま芙蓉が妖夢の裾を咥えて引っ張る。が、寄って来た妖夢を鬼龍がじろりと睨む。慌てて妖夢が後ずさろうとするのをまた芙蓉がぐいと引き寄せる。
 「あ、あの、私はいったいどうすれば……」
 「ええ、面倒な。話は先ほど鬼龍殿より聞いたが、どの道同道しておるのだから一緒に来ればよいではないか」
 呆れた調子で小滝が言う。それから狐どのは犬か人の姿になっておくれでないか、犬でもない獣と同道する旅人などあるわけもないのだからと付け足すと、小滝はすたすたと村へ入って行った。

 村に入ると、通りがかった村人が旅の方ですかと尋ねてくる。そうだと答えると一行は揃って長者の屋敷に案内された。山と里の行き来を取り結ぶ村というだけあって、客があるのには慣れているようである。無骨な大男から男のなりをした女、そして旅芸人風の娘と、ぱっと見にはどういう一行とも得体の知れぬ旅人にも愛想良く言葉をかけてくれながら歩いてゆく。

 が、何かがおかしい、と、鬼龍は思った。村人の衣服も通り過ぎる家々の様子もこざっぱりと整えられているというのに、ぬぐいきれぬ陰がある――そう、案内の男もすれ違う村人たちも、何やら顔色悪く痩せこけているのだ。はて、以前来たときはこんなふうだったかと思い返すが、何しろあまりに昔のことで判然としない。訝しく思いながら行くうちに、長者の屋敷に着いた。

 出てきた長者は赤い頭巾を被った福々しい好々爺である。そうして、どういったわけか両頬に大きな瘤がそれぞれひとつずつついている。
 「おお、これはよくいらっしゃいました。私はこの村の差配を務めておりますもので、おかげさまで瘤取りの長者などと呼ばれておりまする。して、お客人方には、どのようなご用でおいでなのですかな」
 「遠国に訪ねる人がありまして」
 小滝がそれだけ答えて口を噤むと、何か言いたくない仔細でもあるとでも思ったのか
 「おお、それは道中さぞかしお疲れのことでありましょう。足を濯ぐ湯、一夜の宿はこの家で用意いたします。宿代はいくぶん頂戴いたさねばなりませぬが」
 「もちろんお払いいたします。山の中で難儀をしておりました故、人里が本当にありがたく存じます」
 旅芸人の娘姿の芙蓉が言うと、長者はにこにこと頷いて下男を呼び、奥の離れにご案内してさしあげなさいと言い付けた。

 「あれが瘤取りの長者殿か。立派な瘤を二つもお持ちだが」
 奥へと案内されながら鬼龍が言う。
 「はい、実はあれは鬼から貰ったものと言われております。この村から少し行った山の奥には“鬼の相撲場”と呼ばれる場所がありまして。先々代の長者様がそこで鬼と会って宝を貰ってきて以来、この村は栄えるようになったのでございます。それでこの村は瘤取りの村と呼び習わされているのですよ。げんざいの長者様も、元は片頬にひとつだけの瘤だったのが、鬼の相撲場で瘤を貰ってきて、それで村はいっそう商いごとで栄えるようになりましてな」
 「鬼から貰った瘤が福だったのですねえ」
 「はい、みなそのように申しております」
 下男の答に芙蓉が相槌を打つと、男も答えて頷いた。

 「だが、見受けたところ、村の方々は皆……こう、なんというか、こう申しては失礼だが、何か病でも抱えておいでのようだが」
 さらに鬼龍が言うと、下男はもうひとつ頷き、
 「はい、流行り病というのでもございませんが、いつの間にか皆、こう、疲れやすくなりましてな。土地の病とでも申すのでしょうか、季節の変わり目など、老人子供がふらふらと病みついて、そのままいけなくなるようなこともございますよ。……とはいえ、見ての通りにぎやかで金子やお客人の出入りも多い村ですから、他所の土地で一から苦労をするよりはと、みな、この山里に留まっておりますのです」
 「だが、長者様はずいぶんと良いお薬をご存知のようじゃな」
 先ほどお会いしたお顔はずいぶんと福々しかった。村のみなにもお薬を分けてくださればよいものを。
 そう小滝が返した瞬間、下男の顔色がさっと変わったのを、目ざとい吉野は見逃さなかった。――これは、単に薬を独り占めしている長者を恨んでいるなどというようなものではなさそうだ。

 ともあれ、一行は離れ座敷に通された。縁側にはもう、足を濯ぐ湯が用意されている。
 「どうぞおくつろぎくださいませ。じきに夕餉の支度ができますので」
 そういって下男は出て行ってしまう。
 さて、と足ごしらえを解くか解かないかのうちに、いきなり妖夢が居住まいを正して口を開いた。
 「あの……申し上げておかなければならないことが」
 「何ごと」
 「実は先ほどの方が仰っていた“鬼の相撲場”、そこの花道に西行桜がございます」
 「なに」
 「はい、相撲場にはすなわち花道があり、その傍らに立つひときわ姿の良い桜こそ、西行法師が出家なされたときに

 鈴鹿山浮世をよそにふりすてていかになりゆくわが身なるらむ

 とその樹の傍らでお詠みになって、そうして伊勢へと仏道修行の旅に出たという、まさにその樹なのでございます。
 私はどうしてもその西行法師に所縁の桜の枝をいただかねばなりません」
 「ならば勝手に行けばよいではないか。我らはみちのくまでの先を急ぐのだ」
 取りつく島もない様子で鬼龍は答えるが
 「待て、この地に春をもたらすには曙桜の初枝を持ってその桜のもとまで行かねばならぬ。そうであろう?」
 小滝が言うと、妖夢はこくりと頷いた。
 「これまでに貴方がたが春の気を分け与えてきた銘木と違い、鈴鹿の西行桜は山中に知る人もなく立ってございます。鈴鹿に入る前に申し上げようと思っていたのですが」

 言うことがあるなら一緒にいらっしゃい、あなたはいつも十間後ろを歩いているのだもの、話そうにも話せないじゃないのと芙蓉がぶつぶつと言っていると、突然小滝が妖夢を屹(き)っと見遣って言った。
 「ぬしは西行桜に所縁のものじゃな」
 「はい。――貴方様は、まさか」
 言って、妖夢ははっと頭を垂れ、その場に控えた。
 「いかにも桜守じゃ。よいか、そなたのしていることは、大天狗が出張ってくるほどのことなのじゃよ」
 春の気を湛えた桜をことごとく集め、顕界より春を奪いつくそうというその所業、己のしていることがいかなることか、そなたは判っておるのか。
 「いえ。けれど、幽々子様はすべての初枝を集めてまいれとだけ仰いました。いかなるお考えあってのことかは存じませぬが、主命にそむくは臣下の道に悖り(もとり)ますゆえ」
 「ふム。訳を知らせて出されるほどには、ぬしはあるじ殿の信を得ていないと見えるな」
 「……かも、知れませぬ」
 顔を伏せたまま、妖夢は唇をきっと噛み締める。
 「けれど、主命を果たさぬわけにも参りませぬ」
 「ふム……まあよい。顔をあげるがいい。いつまでも畏まられても訝しく思われよう」
 つい、と小滝が視線を逸らすと、妖夢は、声にならない声で失礼いたしますと言い、いきなり縁側から庭に降りようとする。芙蓉がとっさに狐の姿になって飛びつき、裾を咥えた。
 「馬鹿なことを。出るなら一緒に出ましょ。こんな山の夜の中、わざわざ一人になるものじゃないわ――それに、春を集めつくすほどのこと、訳を言わずとも果たそうとしてくれるのは妖夢さんだけ、と、それだけ信が篤いのかもしれないでしょ」
 妖夢はしばらく足元の小狐を見ていたが……やがて、そうですね、とつぶやいて寂しげな笑みを浮かべた。

 「にしても、あんた、お師匠様と同じ大天狗だったのか」
 娘たちが座敷の中に引っ込むのを見届けると、吉野は改めて小滝を頭の先からつま先まで見回し、呆れたように言った。
 「おれのお師匠様も大天狗だが、あんたちっともあんなふうじゃないな。どこからどう見たって人間だ」
 「……ふん、修行を積んでいるからな」
 ちょっとばかり得意そうに小滝が答えた瞬間、どうしたことか小滝の鼻がするすると伸びだした。
 「あ、しまった、いやその、ええとつまり、時折こういうこともあるのじゃ!」
 天狗の高い鼻は慢心のあらわれらしいからなぁ、と、鬼龍が苦笑交じりにこっそりと言う。

 と。
 「夕餉のお支度ができました」
 からりとふすまが開いた。小滝は慌ててそっぽを向き、部屋の隅では芙蓉がひょいと娘の姿に戻った。
 やれやれ、忙しいことだと鬼龍はもう一度笑った。
このシーンの裏側。
posted by たきのはら at 01:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 曙草東道行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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