・医療類似行為を一般に応用可能であるかのように紹介してはならない
・病者との関わりにおいて、専門知識を有しない場合に有用なのは、基礎知識ではなく受容の態度であるが、知識の重要性ばかりが説かれている
・病者との関わりに言及する文章に、誤読の余地を許容してはならないが、表題の論は誤読の余地が多々ある
・病名や疾患メカニズム、および対応技術の安易な記載は、不適切な診断的行為、医療類似行為を招きうる
・相手をコントロールしようとする態度への警戒を含まずに知識や技術のみが記載されている。あまつさえそのような態度を取ることを示唆するような構成になっている
・最終段落は「系統的な訓練を受けなくても“上手いゲーマー”となることで病者に有益な環境を提供できる可能性があるからそうしろ」と読める
なお、この件についての反論などに関しましては、私信等でなく、AGSサイト内等、公開の場所での正式な形でお願いいたします。
私は現在、D&D関連テキストの翻訳者としてゲームに関わっておりますが、一方で大学に勤務し、薬学系研究者・教育者として医療および教育に携わってもおります。臨床の医療チームや店頭の薬剤師の先生方と情報交換しつつ学生を教えている立場として、表題の論は公開するにはあまりに乱暴で危険なものであると判断しております。
以下はそれぞれの“理由”に関する説明です。お時間とご興味のある方はお読みいただければ幸いです。
追記:
2011年5月1日、AGSに表題の論考への対論として、医師である早瀬以蔵氏による「私がTRPGをセラピーとして使わない理由」が掲載されました。よって、本反論文末尾の当方の文言の一部は取り消させていただきます。
ただし、ことが人の心身に関わるものである以上、他者の論を援用するのでなく、AGS主宰自身の言葉で今回の一件へのお考えを伺いたく存じます。
表題の論考を取り下げるべきと考える理由について:
● 医療類似行為を一般に応用可能であるかのように紹介してはならない
表題の論が然るべき専門家の手によって専門誌等に、新たな医療手段のシーズとなる可能性を有するものとしてTRPGという手法を紹介するものであったならば、TRPGというシステムの医療への応用について、専門家によるきちんとした検証が行なわれるきっかけとなり得たかもしれません。しかし、メソッドとして確立されてすらいない方法論、しかも医療に類似する行為に関連することを安易に語り、一般に公開することは、それが誰にでも使用可能な確立された手法であるかのような誤解を生じます。これは意義がないばかりか、むしろ危険です。
「最初に知っておいていただきたいこと」で伏見氏は「治療行為を推奨するものではなく、またその効果を保障するものではない」「これは治療レベルではなく、介護、支援、コミュニケーションのレベルのアプローチである」と強調しておられます。しかし、これでは“介護・支援・コミュニケーションレベル”であれば、表題の論に書かれている情報を応用して病を得た方に有用な環境を提供しうる、また、効果がなかったとしても害は生じないとの誤解を与えかねません。
介護・支援・病者とのコミュニケーションは、適切な訓練を受けている技術者によって、もしくはそのような技術者の支援・指導を受けている病者の家族・保護者等によって、行なわれるべきものです。決して“誰にでも行なえる”ものではありません。それを一般に公開したことは、新たな技術の開発や、よりよい病者との関わりの生成というベネフィットよりも、「これぐらいなら大丈夫だろう」と誤解した善意の人たちによる安易な関わりと、それによる状況の悪化などのリスクが大きいと私は考えます。
岡和田氏の紹介文はさらに問題です。「精神疾患を有していたり障害を有していたりする方の状況が正しく理解されず、いわゆる『困ったちゃんプレイヤー』として排斥されてしまう事例がままあります」という一文があります。このように“ゲームを遊ぶ人たちが現実に直面している問題”と“疾患への言及”を安易に繋げたのでは「困ったちゃんプレイヤーはいわゆる“病人”かもしれない」「治療はできないまでも、認知行動療法的なアプローチをすることで、ゲームの場においてこの“困ったちゃん問題”を緩和もしくは解決できるかもしれない」などの印象を与えてしまいかねません。
また、TRPGにおける“困ったちゃん”については“悪意を持って卓を壊す人”を指す場合が多々あります。しかし、悪意の有無と疾患・障碍の有無は(症状による人間関係の悪化が悪意を招く場合などはともかく)本来無関係のものです。それを同一のものであるかのように述べるこの紹介文は、差別的なものです。
● 病者との関わりにおいて、専門知識を有しない場合に有用なのは、基礎知識ではなく受容の態度であるが、知識の重要性ばかりが説かれている
「基礎知識を持つことは有用」と岡和田氏は記されています。しかし、TRPGを遊ぶ現場で病を持つ方と同席した場合、基礎知識しか持たない(病者に対応するための専門的な知識や技能を持たない)状態でできることは、なるべく同席する時間を短くし、関わりを小さくすることで相手にも自分にも負荷をかけないようにする、そうしてそのことについてネガティヴな意識を持たないでおくことだけです。
基礎知識があれば、病者をさらに攻撃することなく場を解散し、「限られた関わりにおいてはそれが最善の方法であった」と認識することができます。治療の手段を持たず関わりの範囲も限られているのに病者と関わり続けることは、相手を正式な医学的アプローチから遠ざける可能性すらあります。
ただし、そのプレイグループが知己の集まりであり、共に遊び続けたいと望んでいる場合に限り、相手の行動を受容した上で、攻撃せず同席し続けるという選択もあります。これは互いに相応の忍耐力が要求され、場合によっては却って状況を悪化させることもありますが、状況の一時的な緊張が寛緩へのエピソードと繋がることもなくはありません。
ともあれ、このケースについては決して一般化はできません。そしてその際に最も重要なのは病者との関わりにおける受容と共感の態度であり、相手の行動から病名を推測する知識でも、認知行動療法的なアプローチの技能でもありません。
● 病者との関わりに言及する文章に、誤読の余地を許容してはならないが、表題の論は誤読の余地が多々ある
病者との関わり方について言及する文章は、誤読のないように最大限の注意を払って言葉を尽くすか、あるいは“知識をあらかじめ保持しており、誤読する可能性のない層”に向けてのみ発信するべきものです。
問題が生じたときに人の心身を深く傷つける可能性が高く、またそうなった場合のリカバリーが困難だからです。病者への関わりについて、治療者・支援者側に寄る立場から発信するものは、その文言に責任を持たねばなりません。
よって「読み方は人それぞれ」「誤読するほうの読解力に問題がある」との反論は受け入れられないと考えている旨、申し添えておきます。
● 病名や疾患メカニズム、および対応技術の安易な記載は、不適切な診断的行為、医療類似行為を招きうる
伏見氏の論では、病名が提示され、治療的行為に極めて類似した対応方針が記載されています。また、“TRPGセラピー”のポジティヴな面が強調されています。認知行動療法が誰にでも活用できて失敗することのないものではないにも関わらず(認知行動療法の紹介で“普遍的で手順的なスキル”と記載されていますが、メソッドが確立したことはそれが失敗しないことを保証するものではありません。そんな夢のような治療メソッドや医薬品はそもそも存在しません)、失敗した際の兆候の見分け方、リカバリーの仕方も記載されていません。
その上チェックリストには「TRPGによる支援を行なおうとする者がセラピーやカウンセリングについて系統的な教育を受けており、適切な知識・技能・態度を有する」という最重要の一文が欠如しています。
これでは、伏見氏の論を読んだ人が「病名がつくほどではないが行動に○○症的な特徴が見られるから、TRPGを介して××のように関わってみよう」「治療行為でないのなら良いだろう」「既に診断名がついていて医師の治療も受けているようだから、TRPGによってさらなる状況改善ができるかもしれないと持ちかけてみよう」等と考え、実行してしまう事態を防げません。
● 相手をコントロールしようとする態度への警戒を含まずに知識や技術のみが記載されている。あまつさえそのような態度を取ることを示唆するような構成になっている
病名とメソッドの安易な記載だけでも危険なのですが、伏見氏の論はさらなる問題を含んでいます。
病者に対応する場合、医療や支援を提供する側が相手を一方的にコントロールしようとする態度を取ると適切な治療関係が結びにくくなる(依存や反発を生じ、自立を妨げる)ことは既に知られています。医療従事者の学習のための書籍には、知識を有しているからこそそのような態度に陥る危険性があることを警告し、そうならないように留意すべきことを記載しているものが数多く存在します。
しかし伏見氏の論には、支援者が被支援者に対し“対等な立場で”“相手の自尊心を尊重して”信頼関係を築くことを強調する部分はありません。むしろ病者のコントロールをほのめかす文言が多くみられるように思います。
万が一「あなたのGMは常に正しい」的な感覚を捨てきれないままTRPGを用いた“セラピー”をGM的な立場から行なおうとした場合、状況を悪化させることにしかなりません。
このように感じるのは、メソッドを例示する際に「健常児に対して失敗と失敗からの挽回という経験を与えること」「喜びは苦しみの糖衣として存在すべき」という例が最初に記載されていることによるものかもしれません。
私は児童教育については専門家ではありません。ですからこの点については違和感を提示するしかないのですが、ともあれこのような認識では、あまり良い教育効果は得られないのではないか――と、老婆心ながら感じています。現在、学生に対応する際にはPNP(Positive-Negative-Positive)という手法が主流になっています。まず受け入れ、その上で改善すべき点を提示し、最後に励まして送り出すという方法です。確かにNegativeをPositiveで“包ん”ではいるのですが、その目的は“褒め言葉に包んで学生の欠点をあげつらうこと”でも、“褒め言葉で学生に阿り、改善点の指摘の苦痛を軽減すること”でも決してありません。改善すべき点を提示しつつ、学生の中に元から存在する、自覚し、伸びていく力を促すこと、そして教育者は学生が目的とする知識・技能・態度を獲得するためにはどのような支援を行なえばいいか、学生とのやりとりによって学び理解するための手法です。また、学生に関しては改善点を克服することに喜びを感じ、さらに多くのものへ挑戦してもらうことも目的としています。「苦しみを与えること目的とする」との断言にはやはり違和感を禁じ得ません。
● 最終段落は「系統的な訓練を受けなくても“上手いゲーマー”となることで病者に有益な環境を提供できる可能性があるからそうしろ」と読める
最終段落の「TRPGセラピストになる」は、「TRPGが“セラピー”として有効であった“症例”は(確認していないが)多数あったのだろう」「それは“上手いGMやプレイヤー”によって(治療的行為としての意図のないままに)治療的効果を発揮していたのだろう」というかのように読めます。“上手いGMやプレイヤー”であれば、治療者・支援者としての系統的な訓練を受けることなく、体得的に治療的行為を行なっていたかのように。
そしてその後に「TRPGに飽きが来たらこの手法の治療的なツールとしての利用を考えてみてほしい」と続くことで、一般の読者が病者にTRPGを介して(支援やコミュニケーションレベルであるとしても)治療的に関わることで――しかも専門的・系統的な知識・技能・態度をまず獲得するのではなく、“上手いGMやプレイヤー”になることと治療的な意図をもつことで――何らかの“有益な効果”を生じさせ得ると読めてしまいます。
最初にも記載しましたが、病者への関わりを言及するに当たって、誤解や誤読の生じうる記載は最大限の注意を払って避けるべきものです。しかし、この最終段は“医療知識を持たないゲーマー”と“病者に対する支援やコミュニケーション”をあっさりと繋げてしまいます。
表題の論が治療行為を意図するものではないと最初にいくら言っていても、これでは何の意味もありません。“医療従事者によるTRPGセラピー”でなく、上手いゲーマーによって意図せず達成された治療的行為を評価し、その再生産を勧めているのですから。
偶然に存在したそのような例を評価すること自体は、新たなセラピー手法の発見・開発の端緒として確かに意義を持ちます。しかし、それを人に紹介するにあたっては、まず系統的に医療や介護を学び、系統的な知識・技能・態度を獲得した上でTRPGをセラピーとして研究し、手法を確立することを明確に提唱すべきです。
また、TRPGは“そのままの自分ではないキャラクター”を持ち、想像力とコミュニケーションを駆使するものである以上、時として非常な精神的負荷を伴います。精神疾患等を特に持たない人のみで構成されるプレイグループにおいてさえ、たくさんの不和や衝突が起きていることは多くの人が経験しているでしょう。精神疾患を持った方がグループの中に含まれていたとしたら、TRPGが癒しとして働いた幸せな例ひとつに対して、上手くいかなかった、あるいは精神疾患を悪化させる方向に働いた不幸な例が数多く存在しているであろうことは容易に想像がつきます。
そのこと自体はTRPGの手法をセラピーに活かし得る可能性を否定するものではありません。しかし、セラピーとしての効果を求めるのであれば、幸せな偶然を期待して現状を繰り返すようなことがあってはなりません。
● 私見
最後に、「最初に知っておいていただきたいこと」に含まれる「この章が治療行為を推奨するものではなく、またその効果を保証するものでもない」という一文、そして最終段落に含まれる「もしも貴方がTRPGに飽きが来たとしたら」という一文に、TRPGを愛するものとして、医療関係者として、そして医療教育に関わるものとして、非常な違和感――むしろ怒り・悲しみといったほうが適切ですが――を覚えたことを申し添えます。
まず、治療効果の期待できないものを、なぜわざわざ掲載するのでしょうか。最終段でTRPGのツールとしての可能性を言う以上は、そのようなお題目をつけて誤解を招く記載から責任逃れをしつつ一般公開するのでなく、医療・介護・教育の専門家にTRPGの可能性の検証を依頼し、メソッドとして確立した後に、セラピーやカウンセリングのツールとして紹介するべきであったろうと考えます。
そして「飽きたら別の可能性を」という一文について。楽しみとしていたものにさらなる可能性を見出したから、この技術を使えば自分が楽しみ人を楽しませるだけでなく、誰かの苦痛を緩和するのに生かせるのではないかと感じたから、きちんとした医療技術を学び、自分にとってとても大事な技術の可能性を広げたいと考えたから、“飽きた”のではなく“飽き足らなくなった”から――学びの場にいらっしゃる方については、教育に携わるものとして大いに歓迎します。その方が持っている技術について共に学び、それをより良く医療の現場に生かすための協力と努力は惜しみません。
けれども、大事だったものに飽き、もしくは楽しみとしてのそれに価値を見いだせなくなり、その技術を“使いまわそう”と考えて医療や介護を学ぶのであれば、病者と関わるための入り口の“態度”の段階で問題が生じます。
たかが言い回しの問題かもしれません。けれども人と、特に病者と関わる場合、知識と技能の基礎として態度が非常に重要なものとなります。それをあまりにも軽視した表現で病者との関わりを勧める最終段落は、きわめて不適切なものと言わざるを得ません。
以上の理由により、AGSには、どうか表題の論を取り下げいただけるようお願いいたします。でなければ、両論併記の形で表題の論からこちらの反論にもリンクを貼っていただきたく思います。
滝野原南生/糸数七重
追記:
2011年5月1日、AGSに表題の論考への対論として、医師である早瀬以蔵氏による「私がTRPGをセラピーとして使わない理由」が掲載されました。よって、本反論文末尾の当方の文言の一部は取り消させていただきます。
ただし、ことが人の心身に関わるものである以上、他者の論を援用するのでなく、AGS主宰自身の言葉で今回の一件へのお考えを伺いたく存じます。
※今回の記事につきましては、AGSの当該記事への反論と取り下げの要求のみを目的としております。ですので、今回の記事について、コメントやメール等をいただきましても、個別のお返事は失礼させていただきます。


